【全文】「弟子を回復させるイエス」ヨハネ21章1~14節

みなさんおはようございます。休暇を頂き、今日、久しぶりにここで聖書の言葉を語る機会をいただきました。1月~3月と杉野先生やふじみ教会、役員のみなさんなど多くの支えによって教会が守られたことを感謝しています。休暇を頂き、本当にありがとうございます。

11月末に連盟理事会から平塚教会プロジェクト・否決という連絡を受けました。その時私には心がぽきっと折れるような感覚がありました。予想していた事ではあったのですが、それでも実際にその結果を突き付けられた時、とても大きな挫折を感じました。休暇に入りました。そして、私はひとつ決めました。「とにかく誰かに会おう」「誰かと一緒に食事をしよう」。牧師仲間や先輩に会いに出かけました。福岡では神学生時代の仲間が温かく迎えてくれました。福岡では西南学院大学の授業にも参加しました。福岡は私にとって、牧師へ献身するスタートの場所でした。その体験は私が牧師になるという志をもって学んでいた「初心」を思い出させてくれました。

たくさんの食事の中でも忘れられないのは、炭火で焼いたカキでした。炭火でカキが、ぱちぱちと音を立てます。それを食べながら自分の気持ちを聞いてもらったり、励ましてもらったり、昔話をしたり、仲間が頑張っている様子や葛藤している様子も教えてもらいました。

そんな風に私の献身の原点となる場所で、いろいろな人と一緒に食事をしていると、自分も心折れてないで、前を向いて一歩、歩み出そうと思えるようになりました。もう一度ここから始めよう、再スタートしようと思えたのです。それは私にとって回復の時でした。献身の原点に戻る、原点回帰する機会でした。これは後から知ったことですが、心理学的にも落ち込んだ時は、慣れている場所に行くことや、慣れている人と会うことが良いそうです。

こんな風に2か月を過ごしていました。このような回復の機会を平塚教会からいただいたことを感謝しています。また一から、新しくスタートする気持ちで始めたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

この経験のあと、今日の聖書を読みました。不思議なことに、弟子たちの気持ちが分かるような気がしてきました。聖書の物語を見てゆきたいと思います。

 

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ヨハネによる福音書21章1~14節を一緒にお読みしましょう。弟子たちは、イエスに従って生きていました。自分の仕事を手放して、イエスに従う人生を送っていました。イエスの様になりたいと願って従っていました。しかし、弟子たちの見たものは、イエスの受難、十字架でした。弟子たちにとってそれはどんな出来事だったでしょうか?

それは弟子たちの心をぽっきりと折る出来事だったのではないでしょうか?さらに弟子たちは怖くてその場から逃げだしてしまいました。そしてペテロは3度イエスを知らいなと否定し、逃げました。自分自身に対して自己嫌悪も感じたでしょう。弟子たちはその十字架の後、何をしていたのでしょうか?イエスは3日後にはもう、弟子たちの前に復活し、現れました。しかし弟子たちは3日後から、すぐに積極的な宣教を始めたわけではありませんでした。イースターの出来事の後、弟子たちは実家のある地元、ガリラヤに帰って、元々していた職業、漁師に戻ってしまっていたのです。そこでかなりの時間を過ごしたでしょう。

弟子たちがガリラヤに戻り、漁師に戻るという行動は、伝統的な解釈では、信仰の弱さだと説明されてきました。弟子たちはイエスの復活を見たのに、やっぱり尻込みしてガリラヤに帰り、漁師に戻ってしまった。弟子たちはやっぱり弱い存在だったと解釈されてきました。しかし本当にそうでしょうか?実は私も似たような経験をしました。心が折れる時、元にいた場所に戻るという体験です。それはもちろん弱さからくるものです。でもただ弱かったのではありません。弟子たちは、大きなストレスを味わいました。そこから心を回復させてゆくには相当の時間と環境が必要だったのです。傷ついた弟子たちの行動は本能的なものでした。弟子たちはその傷から心を回復するために、一度いつもの場所に戻る、昔から慣れている場所に戻る必要があったのです。

弟子たちはそこで、原点回帰を体験したのではないでしょうか。そこに身を置くことで、そうだもう一度ここからやり直そう、私たちはここからスタートして、イエスに従ったのではないか。そう気持ちを新たにすることができたのではないでしょうか?再スタートするためには、ガリラヤでの回復の時間が必要だったのではないでしょうか?

そしてそこにイエスが登場します。イエスの登場はこうです。イエスはまず、自分だとはわからないくらいそっと現れます。誰も気づかないくらいさりげなく登場するのです。そして小さな声で優しく聞きます「朝ご飯は食べた?」「網を何回、下ろしても失敗だって?」「じゃあ私が言うちょっと違う方法を試してごらん」「きっとうまくいくよ」。イエスはそんな風にさりげなく登場したのです。復活したイエスは漁師たちの冷えた体を、炭火を起こして待っていました。

ここでひとつ気になる言葉が登場します。それは炭火という言葉です。実は聖書にも、たった2回だけ炭火という言葉が登場します。そのどちらもがヨハネ福音書です。1回目の炭火が登場するのは、ペテロが「イエスなんて知らない」と言ったあの夜のことです。そのときも、炭火がありました。ペテロは炭火の明かりでイエスの仲間だとばれてしまいました。そして炭火の前でイエスを三度否定したのです。炭火はイエスを否定する経験と結びついていました。炭火は心が折れた場所でした。

そして炭火が再び登場するのが今日の場面です。イエスはその朝、炭火を準備していたのです。そしてその上に、魚を載せて、パンも準備して待っていました。ペテロは、この炭火を見て何を思ったでしょうか。あの夜を思い出したかもしれません。そして今日の個所はペテロが三度、イエスを愛していると告白する場面につながってゆきます。ペテロは炭火の前で三度否定しました。そして今、炭火の前でイエスへの愛を三度、誓おうとしているのです。イエスの期待はペテロが自分の痛みを、もう一度主の前に差しだすことでした。そしてイエスの期待は弟子がそこから回復し、再スタートすることでした。

これはただの食事ではありません。それは折れた心を回復させるための食事だったのです。ペテロは炭火の前から逃げ出しました。裏切りました。心が折れたのです。でもそれを回復させるために、イエスは食事を準備し、再び炭火の前に招いたのです。炭火の上で焼いたパンと魚、それは冷えた体を温める、疲れた体を癒す、回復の食事でした。そしてもう一度、愛そうとする、立ち上がろうとする心を回復させる食事でした。そしてイエスとの関係を回復させる食事でした。それが今日の物語です。

ここでイエスがしなかったことは何でしょうか?イエスは弟子を全く責めません。ただ側にいて、炭火を起こしパンと魚を準備していたのです。

イエスのあり方から私たちの生き方を考えましょう。イエスは甘えるんじゃない、休んでいないで出発しなさいとは言わないお方です。イエスはまず弟子たちに休息を与えるお方でした。イエスは不安で立ち上がれない弟子たちに、どうしたらいいかわからなくなった弟子たちに、心折れた弟子たちに、そっと現れて、声をかけました。「ちゃんとご飯は食べてるか?」と。それが私たちの信じる、復活の主でした。弟子たちはその食事に本当に励まされたのです。ここから弟子たちの新しいチャレンジが始まってゆきます。それは原点からの再出発となりました。

他に、あなたはこの物語からどんな生き方を教わりますか?私には、もし疲れているならイエスがあなたを休ませてくださると聞こえます。そしてイエスの寄り添い方にも注目します。イエスはあなたが前に進めないとき、そっとあなたに現れて、あなたを励まし、回復させ、また送り出してくださるお方なのです。

あなたはそのようなイエス・キリストの弟子です。私たちは疲れている人がいる時、不安に思う人がいる時、心が折れるような体験をした人がいる時、失敗をしてしまった人がいる時にどのように関わるでしょうか?

イエスならわからないくらい、さりげなくそっと側にいたでしょう。そして「ちゃんと食べてる?」と気遣ったでしょう。一緒に温かい食事をし、絆を確認し、回復を助けたでしょう。食事にはそんな不思議な力があるものです。人は一緒に食べると心を開きます。誰かと食卓を囲むと孤独が少しやわらぎます。イエスは聖書の中で何度もそのような食事をしました。

私たちはそんな、イエスのような生き方ができるでしょうか?私たちは心折れた人の側にそっといること、ただ一緒に食事を囲むこと、誰かに温かさを届けるような生き方、誰かと絆を確認するような生き方ができるでしょうか? 私はそんなイエスのような生き方がしたいと思いました。私はこの物語に押し出されて、人生をもう一度スタートをしたいと思っています。お祈りします。