【全文】「キリスト教入門」ヨハネによる福音書10章7~18節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共にみ言葉を聞き、礼拝できることを神様に感謝します。4月5月とキリスト教入門というテーマで宣教をします。この春から初めて教会に来られる方を歓迎します。一緒に、少しだけ「声」に耳を澄ませてみませんか。YouTubeで見ている方もいます。一緒に礼拝をしてゆきましょう。

私たちはみんな、何かの「囲い」の中で生きています。囲いは学校、職場、家族、教会、地域、友人などです。いろいろな囲いがあります。今、あなたはどんな囲いの中にいるでしょうか?それは大切な場所かもしれません。そして私たちはそこで誰かの「声」を聞いて生きています。誰かからの期待、評判、そういう「声」を聞きながら生きています。時に、その中の大きな声が囲いの中に響き、私たちを縛ることがあります。いっそすべての声と囲いから抜け出して、その外で生きたいと思うこともあるかもしれません。

21世紀です。今は、ひとりで生きることも選べる時代です。囲いから抜け出して生きている人も増え、どんな声にも縛られない生活を選ぶことができます。しかし一方で、社会では孤立の問題も深刻になってきています。囲いから出るのは自由。でも自由になると、誰かの声は聞こえなくなるものです。誰の声も聞こえないと、人は孤独を感じます。囲いと、声はある程度私たちに必要なものです。私たちには「自由な囲い」と「自由にさせる声」が必要ではないでしょうか?もしそんな囲いと声があるなら、そこに入りたいと思います。私は、私があるがままの私でいられて、本当の私でいられる囲い、私を幸せへと導く声のする囲いに入りたいのです。

教会はどうでしょうか?教会も様々な囲いのひとつです。多くの人から見て教会という囲いは、かなり異質です。あそこに行くとどんな声をかけられるのだろうかと不安になります。想像がつかない、怖い場所に思えるかもしれません。だから初めての参加者は緊張します。入って大丈夫だろうか? どんな声をかけられるのだろうか?教会は世間からそんな風にみられています。

でも、本当の教会は違います。教会はそんな怖い場所ではありません。まず私たちは囲いのために生きているわけではありません。囲いを守るために羊がいるのではありません。羊を守るために囲いがいるのです。

大切なのは、囲いではなく、そこに響く声です。一人ひとりの命なのです。聖書には命について私たちに何を示しているでしょうか?新しい命、自由な命、豊かな命が、どう示されているだろうか?聖書からどんな声が聞こえるでしょうか?見てゆきましょう。

今日お読みした箇所はヨハネ福音書10章7~18節(186頁)です。私たちはこの聖書を神様からの言葉・声として受け取っています。神様からの言葉・声は宗教の教義を教えることが目的ではありません。あれはだめ、これはダメという戒律が書かれたものではありません。

この聖書、神様の声は私たちがどうすれば人生を豊かに生きることができるかということを問いかけています。聖書は人生に問いを投げかける書物です。聖書にはあなたはどうすれば今より幸せに生きることができるかという問いかける声が並んでいます。人生の単純な答えが書かれているわけではありません。聖書には質問とヒントが書かれていて、その声に私たちがどう応えるかを問いかけられています。聖書とは、人生への問いかけの書です。私たちはどう生きるべきか?その問いを胸にもちながら聖書を読んでゆきます。

では7節を見てゆきましょう。イエスが「はっきり言っておく」と宣言している声が聞こえます。それは「私は門である」という声です。そして同時に「羊は私の声を知っている」とあります。イエスはこう言ったのです。「私は羊の門である」「羊は私の声を知っている」これが今日の中心メッセージです。これはどういう意味でしょうか?

羊は弱い動物です。すぐにオオカミなどの肉食動物に食べられてしまいます。弱いから群れを成します。そして特に夜に、肉食動物から守られる囲いを必要とします。昼は囲いから出て、自由に草を食べます。羊はそのために羊飼いの声をよく聞きます。羊飼いの声を聞いた羊は夜はその囲いに守られて、安心して眠ることができます。それが羊です。

イエスはそんな羊の光景に重ねて、自分のことを「羊の門である」と声を出しました。イエスは門なのです。イエスとは囲いの入り口にあたるということです。そして8節にはこうあります「門を入って、囲いの中に入るものは救われる」。

当然ですが、羊たちは囲いのために存在しているのではありません。羊のために囲いと門があります。そしてその門の入り口にはイエスが立っています。そしてイエスは門の外に向けて語っています。

さあ門から入っておいでと語っているのです。それは全ての羊に開かれている門です。イエスは誰でもこの門から入ってくるようにと招いています。わたしなんかが入っていいのだろうか?と思う必要はありません。イエスの方からすべての人を招いているのだから、ぜひ入って来て下さい。

イエスの門からその囲いに入るとはどんなことでしょうか?それはイエスの声に耳を傾けて生きるということです。それが「門に入る」ということです。これは「宗教に入りなさい」という意味ではありません。団体に所属すれば安心感があるというわけではありません。

門に入るとは、イエスとの関係に入り、その声を聞くようになるということです。イエスの声に耳を傾けて生きることが門に入るということです。門の中に入るとはイエスの示す生き方を生きるようになるということです。そうそれは、イエスの声に聞き、イエスの生き方という道に入門をすることです。イエスの声を聞き、生き方に入門をすることです。

入門した羊たちができることはどんなことでしょうか。羊たちは羊飼いの言葉を聞き分けることができるとあります。羊が羊飼いに従おうとするとき、様々な声が聞こえます。でも羊たちがイエスに従おうとする時、入門しようとするとき、その様々な声の中から、イエスの声を聞きわけることができるようになるのです。

そうです。イエスは今も、静かに、しかし確かにあなたに向かって語りかけています。あなたはその声を聞き分けることができます。その声は、誰かを責める声ではなく、あなたの名前を呼ぶ声です。「大丈夫?」と言う声かもしれません。「そっちでいいの?」という声かもしれません。その声はあなたにどのように生きてゆくのかを問いかける声です。神の声は全てを決めてくれる声ではありません。私たちはイエスの声を、自分に問いかけながら、イエスに従って生き方を選ぶ者です。イエスの声を聞きながら人生を決めてゆく者です。

教会は、ただの囲いではありません。教会は、その声を一人でなく、一緒に聞く羊の群れです。教会はみんなで安心してイエスの声を聞くためにあります。私たちはイエスの声を聞くための集まりです。イエスの生き方に従う集まりです。イエスを自分の羊飼いとする集まりです。私たちはイエスの声によって一つの群れになっています。ここに集う一人一人が、それぞれに幸せな生き方ができる様に、もっと声が聞こえる様に、私たちは群れで聞いています。

10節でイエス自身がそのことをもっとはっきり語っています。イエスはここで自分の存在理由を説明します。「私が来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」とあります。イエスの目的ははっきりしています。イエスが来た目的は私たちがもう一度命を受けとりなおすためです。そしてその命をもっと豊かにしてゆくためです。私たちが幸せになるために、イエスの声が、あなたの命を導こうとしているのです。イエスの声は私たちの豊かな命のために、進むべき道を問いかけ、導いているのです。イエスは命がけでその声を伝えようとしています。

さて、私たちの人生に目を向けましょう。私たちがどう生きるかは、私たちが何を聞いて生きるかにかかっているのではないでしょうか?私たちは何を聞いて生きているでしょうか?イエスに入門した者は、イエスの声に聴き従うと決心した人です。

「イエスの声から新しい生き方を教えてもらおう」教会はそんな人の集まりです。すでにあなたに門は開かれています。あなたを縛るために囲いがあるのではありません。この門は全員が招かれているが、出入り自由な門です。そして何よりあなたの人生を豊かにするための門です。あなたの命がもっとあなたらしくなるための声を聞いてみませんか?

今日、みなさんにもイエスの声が聞こえたでしょう。「私は命を豊かにするために来た」その声はあなたをもっと自由にします。その声はあなたをもっとあなたらしくさせる方へと導いています。あなたにはきっともっとその声が聞こえるはずです。私たちはその声を少しずつ聞きながら生きてゆきましょう。その声は、今もあなたを呼んでいます。そして今、少しでもその声を感じているなら、それが、門の前に立っているということです。あなたには、聞こえていますか?あなたに門は開かれています。これから私たちと一緒に、その声を聞きませんか?きっとその声があなたの人生の光になるはずです。お祈りします。