【全文】「目の前の人を大切にすることから始める」ヨハネによる福音書13章31~35節

 みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを感謝します。今月は春から初めて教会に来てみたという方に向けて、聖書の入門になるようなメッセージをしてゆきたいと思います。難しいことよりも、キリスト教の大切にしているエッセンスが伝わったらよいと思っています。15分程、今日の聖書の個所について、祈りながら私が感じたことを話します。あなたはどう感じるでしょうか?

 

今日の聖書箇所には「互いに愛し合いましょう」という言葉がありました。みなさんは誰かと愛し合っていますか?「愛している」なんていうと、なんだか照れくさいイメージがあるかもしれません。日本人は「愛してる」なんて口には出さないものです。愛し合うって何をしたらいいのかもわかりません。

 

この「愛」という言葉、あなたにとってどんな響きでしょうか?日本では愛という言葉は恋愛のイメージで受け取られがちです。年齢の違う人や、恋愛対象と感じない人、ましてや初めて会うような人を「愛しなさい」と言われるとなんだかむずがゆく、照れくさいと感じます。

 

聖書はもともとギリシャ語で書かれていて、それが日本語に翻訳されて手元にあります。愛はもともと、ギリシャ語でアガペーという言葉でした。聖書を日本語に翻訳しようとした人は悩みました。アガペーはどんな日本語に訳せばいいだろうか?と。

 

いつの間にかアガペー=愛するという翻訳が定着をしましたが、当初は「大切にする」という翻訳がされたこともありました。私はむしろ、その方がしっくりきます。聖書の愛、聖書のアガペーとは「大切にすること」と訳した方が受け止めやすいと感じています。

 

そうするとこの個所はどう読めるでしょうか。これは「互いに愛し合いなさい」ではなく「互いに大切にしあいなさい」という教えとも読めるようになります。そちらの方が、照れくささがなくなるかもしれません。みなさんは最近、誰かを「大切にした」ことはありましたか?

 

「互いに愛し合いなさい」とはすなわち、「互いに大切にしなさい」ということです。それは互いを尊重、リスペクトしなさいとも言えるでしょう。

 

もしかすると、愛することはできなくても、大切にすることならできるかもしれません。私たちには正直に言って、なんかちょっと気が合わないという人がいるものです。人生で出会うたくさんの人の中には、どうしても好きになることができない人もいるかもしれません。でも「大切にする」ことが大事なのだとしたら、無理に好きにならなくていいのです。愛さなくてもいいのです。大切にすることが大事です。それなら可能ではありませんか?

 

苦手な相手を深く愛し、大好きになろうとしなくていいのです。嫌いな相手を深く愛することは難しいでしょう。でも大切にすることならできませんか?

 

相手を大切にすることとはどんなことでしょうか?今、目の前にいる人を大切にするとはどんなことでしょうか。それは大きなことではなくて、小さなことから始まるのではないでしょうか。たとえば気持ちよく挨拶することや、笑顔でほほ笑むこと。愛は大きなことでなくていいのです。今日小さく集った私たちが大切にしあいましょう。

 

日本には「お大事にどうぞ」という言葉があります。最近、誰かにそう声をかけたことはありますか?あるいは、そう言ってもらって、少しほっこりしたことはないでしょうか?愛とは、もしかすると、そういう一瞬の出来事なのかもしれません。キリスト教ではこの「互いに愛し合いなさい」「互いを大切にしあいなさい」という教えをとても大事な教えとしています。

 

イエスはこの教えを自分に近い弟子たちに教えました。おそらく12人+アルファ。今日ここに集まっているのと同じくらいの人数に教えました。自分の元に集まっているごく少人数の弟子たちに向けて教えました。

 

人数が少なかったのは、実はイエスの活動があまり周囲に理解をされていなかったからでした。周囲に理解されなかったイエスは、まず目の前にいる少数の弟子が、互いを大切にすることから始めようと教えました。世界を救おうという話ではありませんでした。「なあ、小さなグループの私たちが、いま目の前にいる人を大切にしようよ」と呼びかけたのです。イエスによって、とても小さい範囲の愛が語られました。あなたとあなたが大切にし合いなさいと語られました。

 

それはとても小さい範囲の愛です。教会の中だとしたら、となりに座っている人を、まず大切にしようという呼びかけです。家族の中だったらお父さんお母さんや夫婦、パートナー、こどもやきょうだいを大切にしようという呼びかけです。イエスはこのようにまずそばに、目の前にいる人に目を注ぎ、小さい範囲の人を大切にするように教えました。

 

そしてイエスはそこから愛が広がると語っています。イエスはそこから愛が、その人が目の前の人を大切に思う思いが世界へとつながってゆくと語っています。イエスはこう言っています。「あなたがたが大切にし合う姿から、それによってイエスの弟子だとわかる」と。

 

これは私たちがそばにいる人を大切にしている姿から、イエスの教えが世界へと広がってゆくということです。私たちは顔の見えない誰か、人類全体を愛することについて何をすればいいかわかりません。でもイエスは、いまここにいる、あなたとあなたが大切にしあいなさい、そこから世界に愛が広がると教えているのです。

 

イエスは私たちの身近にいる、あの人との関係を、大切にしあうものにしてゆきなさいと教えています。一つの愛で急に世界が変わるわけではありません。あなたとあなたが互いに愛しあうことから弟子が増える、そこから少しずつに大きな愛が始まるのです。もっとよい世界のために目の前の人を大切にすることから、私たちは始める様にと言われているのです。

 

そばにいる人なら大切にすることは簡単に感じるでしょうか?実は聖書にはそばにいる人を大切にすることさえ難しいことだと書かれています。

 

実はイエスの「互いに大切にし合いなさい」という掟を守るのは難しい事でした。この後、聖書を読み進めてゆくとそれがわかります。イエスはこの後捉えられ、十字架という道具で死刑にされてしまいます。「私はあなたたちのこれないところに行く」という言葉はこの後、十字架に掛かって死んでしまうという意味です。

 

実はイエスが逮捕される時、弟子たちは逃げ、誰もイエスのそばにいなくなります。弟子のペテロはイエスを簡単に裏切ってしまいました。自分が大切にしてきたものを自分で3度も否定してしまったと書かれています。他の弟子も同じです。互いに大切にしあうように教えを受けた弟子たちは、イエスに追手が迫ると、イエスも仲間も見捨てて一目散に逃げ出しました。

 

互いを大切にしあうのではなく、互いにバラバラになって、散り散りになって逃げてゆきました。弟子たちは早速、大切にしあうことができなかったのです。この教えを聞いたすぐ後に、ちょっと状況が変わっただけで、目の前の人を大切にすることが、できなくなってしまったのです。

 

聖書はこのように目の前にいる人を大切にすることは、難しいことだと語っています。だから、世界の人が世界の人を大切にするのはもっと難しいのかもしれません。こんな戦争が絶えない世界なのは、私たちが身近な人を愛せないから、大切にできないからなのかもしれません。私たちが身近な人をもっと大切にできたら、世界はもっとかわるのかもしれません。でもイエスは世界は変わると言っています。

 

私たちは互いを大切にしてゆきましょう。互いを大切にしているサインを出しあいましょう。あなたとあえてうれしいという思いを言葉や態度で表現してゆきましょう。いきなり大好きにならなくてもいいです。嫌いだっていいのです。苦手のままでもいいのです。でも大切にすることはできるはずです。嫌いな人にでも互いの傷や痛みをいたわる気持ちは持てるはずです。そして初めて教会に来てくれた人を大切にしましょう。初対面の人を愛したりはできないかもしれません。でも大切にすることならできるでしょう。初めて教会に来た人と大切にしあいましょう。

 

今日初めて聖書の話を聞いた人はどう感じたでしょうか?私たちはこんな風に、あなたと隣に座る人が大切に思い合う、そんな気持ちがたくさんある教会になりたいと思っています。そこから世界が変わってゆくと信じています。ぜひあなたもその仲間の一人に加わって欲しいと思っています。小さい集まりですけれども「互いに愛し合いなさい」は小さい集まりからこそできることです。ぜひこの空気を一緒に作ってゆけたら嬉しいです。

 

神様はあなたにお客さんではなく、誰かを大切にする当事者として加わって欲しいと願っています。YouTubeを見ている人はどうでしょうか。今あなたのそばにいる人を大切にしてください。そしてどこでもいい、ぜひどこかの教会の大切にし合う仲間に加わってみてください。

 

すぐに世界を変えることはできないかもしれません。でも、目の前の一人を大切にすることならできるかもしれません。それが世界を変えてゆくのです。そばにいる人を大切にすることから、始めてみませんか。

 

聖書によればイエスは「私が愛したように、互いに愛し合いなさい」と語ります。イエスがまず先に、あなたを大切に思っています。あなたはイエスに大切に思われています。その思いを胸に目の前の人を大切にすることから始めませんか?お祈りします。