【全文】「大切なパン・無料」ヨハネによる福音書6章5~15節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること神様に感謝します。春は新しい事を始める方も多くいます。特に教会に初めて来る人を歓迎する期間としています。今日はこのあと主の晩餐という儀式があります。今日はあるパンについて、一緒に考えたいと思います。

私たちは毎月第一日曜日に主の晩餐という儀式を行っています。これはみんなで一緒にパンとブドウジュースを飲む儀式です。私たちの教会では、礼拝に出席している人なら、誰でもどうぞ、パンとブドウジュースを取ってくださいとご案内しています。これらの趣旨にご賛同いただける方はどうぞ取って食べてください。無料です。もちろんあなたには取らない自由もあります。

この儀式の目的は、手元の資料にも書いてあります。大きく分けて3つです。第二として書かれていることに注目をします。そこには主イエス・キリストとの様々な食事を思い出すためとあります。

私たちはこのパンを食べる儀式を2000年前から大切にしています。私たちはこのパンを大切なパンとして祈って感謝して食べています。でも私たちは、そのパンの価値をよく理解している人だけが食べてくださいというルールにはしません。そんな風にすると実は私も含めてよくわかっていない部分もあって、誰も食べれなくなってしまうからです。

私も含めて、十分にその重さが分かっていないのですが食べています。相応しくないのですが、でも食べています。食べて、なんとかイエスのことを分かろうとしています。3つの目的を思い出しながら、食べています。みなさんも価値が分からなくてもかまいません。何か大切なものらしい、そんな風に感じながら食べて下さればと思います。まずはぜひ体験してみてください。

私は先日、パン作りを初めて体験しました。みなさんはパンを作ったことがあるでしょうか?小麦粉をこねる作業からパンを作りました。素早く、力を入れてこねるのが大変な重労働で、腕の痛みを感じながら、それでもやめずに、ただこね続ける。20分間こね続けるという作業でした。ひとつのパンを作るのにこんな大変な苦労があるのかと私は驚かされました。そしてパンが出来上がりました。香ばしい香りのするパンが焼きあった時、とても胸が高鳴りました。そのこのパンは、私にとっては他のパンとは大きく違う、ひときわ思い入れのあるパンとなりました。

しかし焼きあがった時、ある人が言いました。「このパンを隣にいる別のグループに分けてはどうか?」。私は分けたくない人の顔を思い浮かべて答えました「このパンの価値や、苦労をわからない人にあげるはもったいない」「正直、あげたくない」「だって自分で苦労して作ったパンなのだから、その苦労や意味を理解している人に食べて欲しい」と思ったのです。でもその時、胸にはっとする思いが湧きました。自分も今の今までその苦労を知らなかったくせにと。そしてもう一つ気づきました。イエスはどうだっただろうか?と。

イエスはパンを価値が分かる人とだけ分かち合っただろうか?いや、違いました。イエスはどうしたでしょうか?今日はみなさんと、イエスがパンを分かち合う物語から、私たちがどう生きるべきか、愛とは何かを一緒に考えたいと思います。

 

 

聖書に目を移しましょう。2000年前に話を移します。ヨハネによる福音書6章5~15節までをお読みいただきました。ある時、イエスに従う5000人以上の人がお腹を空かしていました。そして食べ物も、それを買うお金もありませんでした。もしあなたが2000年前にそこにいたらどうしますか?

その時、ある一人のこどもが自分の持っている2匹の魚と5つのパンを差し出しました。子ども自身はその行動の意味、それが5000人に対してどれほどの量だったのかわかっていたでしょうか?大人たちは「これだけでは何の役に立ちません」と言っています。そのパンの価値をどう感じていたのでしょうか?それは無垢な子どものほほえましい善意でした。しかし必要に対して、あまりに少なすぎました。大人が思わず「何の役にも立ちません」と口に出してしまうほどでした。

イエスがどうしたかに目を移しましょう。イエスはただ「座らせなさい」とだけ言います。そしてそのパンと魚を取って、感謝の祈りを献げました。イエスだけがその役に立たないものに価値を見出し、感謝しました。イエスだけがその価値を知っていました。そしてイエスはその価値をさらに大きく変えようとしています。

イエスはこれは小さなパンだが、ただのパンではない、これは新しい奇跡を起こすパンだと信じて、感謝し祈りました。そして不思議なことが起こりました。パンと魚が増えて人々に行き渡ったのです。

弟子たちはそれをただ配る役割でした。弟子たちは、このパンの意味や、イエスの苦労がわかる人にだけ配ったのではありませんでした。感謝して受け取る人にだけ配ったのではありませんでした。いちいち確認しながら配ったのではありません。そもそも弟子たち自身も良く意味を理解していません。弟子は大切さが分かろうが、分からなかろうが、とにかくそこにいる、あまねく全員に配ったのです。性別や年齢、宗教も思想も問わない。とにかくそこにいた人、全員と分かち合ったのです。そして人々は満腹になったのです。

ここにはもう一つの驚きがあります。それはパンがなんと12カゴも余ったと書いてあることです。残してしまったのです。みなさんが2000年前にその場所にいたらどう感じましたか?ちょっともったいないと感じませんか?これは現代風に言うとフードロスです。イエスは、もったいないと思わなかったのでしょうか。食べ物への感謝が足りないと思わなかったでしょうか?この民衆はパンを食べて、満腹になってなお、このパンの価値が分かっていなかったのでしょうか?

彼らはそのパンをありがたく、ありがたくいただいて、あまらせるなんて、そんな罰当たりな事をしてはいけないとは思いませんでした。最後のパンくずまで残さずに、食べようとはしませんでした。

でもイエスはこのような人々とパンを分かち合った人でした。イエスは残してしまうほど価値を理解していない人、感謝の足りない人に配りました。イエスはそんな人々に、必要以上にたくさん与えたのです。分かち合ったのです。イエスは自分の力を、その価値を全く理解できない人々のために、有り余るほど使った人だったのです。

さて、この物語は私たちの生き方にどう関係するでしょうか?私たちの明日とどんな関係があるでしょうか?一緒に考えましょう。

私たちは、私が作ったパンの様に、自分が時間をかけたり、心を込めたりしたものを特別に、大切に思うものです。時間をかければかけるほど、大切なものになります。だから「わかってくれる人に渡したい」と思うはずです。でも私たちはそれを誰とでも惜しみなく分かち合うことができるでしょうか?

私たちにはそれを誰かと分かち合う時、必ず惜しいという感情がでます。しかし聖書によればイエスにそのやり方はそれとは違ったようです。イエスは有り余るほど他者に、自分の力を注いでいます。他者のために無償で汗をかきます。他者のために自分の力を使います。感謝されるかどうかに関わらず。それは私たちに何を示しているでしょうか?

私たちの生きる時代は、何でも値段のつく時代です。食事もマッサージも介護も、すべてが1回いくらと値段があります。代金を払うとこんなサービスを受けられると値段が設定されています。でもイエスは違いました。イエスは無償で、愛を、あまねく人に注いだお方だったのです。

イエスにとってはその価値が理解されようが、されまいが関係ありませんでした。感謝されようが、されまいが関係ありませんでした。それがこの食事だったのです。それがイエスの示した愛だったのです。

私たちはこのような生き方を選べるでしょうか?誰かに無償で愛を注げるでしょうか?価値を理解せず、感謝もせず、むしろ余らせてしまうような他者に、私たちは自分の大切な力を使うことができるでしょうか?私たちは、何度でも、何度でも、その他者に愛を注げるでしょうか?このパンの物語から、そんな生き方ができるかと問われているのではないでしょうか?

私たちはこれから主の晩餐という儀式を行います。このパンはとても大切なものですが、無料で、誰でも食べて良いパンです。その意味が十分に分かっていない私たちがとって食べます。きっとそこから何かが始まるはずです。

イエスの愛は無償で無条件です。イエスはお金や何かと交換で人々にパンを与えたでしょうか?このパンは、無償・無条件です。そのパンをみんなで分かち合いましょう。

私たちはこれからパンを食べます。あなたに愛を差し出したくないと思う相手がいるでしょうか?イエスはあなたの明日の生き方に、明日の愛に期待しています。あなたはそれを差し出すことができるでしょうか?私たちはこのパンを頂きましょう。お祈りします。