みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝ができることを神様に感謝いたします。今月は特に初めて教会に来るという方に届く言葉を探しています。聖書は「~してはいけない」「~しなさい」という答えを押し付ける教科書ではありません。
聖書には人生が豊かになるヒントと問いがたくさん書かれています。ヒントと問いをみんなで考えてゆきましょう。答えではなく、「問い」を一緒に持ち帰れたらと思います。
みなさんはもし今、私が「あなたの足を洗わせてください」と言って、水を張ったタライとタオルをもって、あなたの前にひざまずいたら、どう感じるでしょうか?
「あ、今日…靴下に穴が…」そんなことを思うかもしれません。「こんな靴下を見られたら笑われるかもしれない」「今、足の爪が伸びている、分かっていればきれいにしてきたのに」・・・。足を洗ってもらうということは、あるがままの自分を見られるようで恥ずかしいと感じるでしょう。一度家に帰って、よく洗ってたくさんクリームを塗ってきれいにしてから人に見せたいと思うでしょう。それは、着飾った自分ではなく、隠しきれない『生の自分』をさらけ出すような怖さがあることかもしれません。あるがままの自分を見せるのは恥ずかしく、怖いものです。
少しだけ、問いを変えてみます。「この人なら洗ってもらってもいい」と思えるのは、どんな人でしょうか。あなたの汚いところや傷跡、長年抱えてきたものを、この人なら見せてもいい。そう思える人はいますか?
では反対だったらどうでしょうか?もし今から、あなたが誰かの足を洗って下さいと言われたらどう感じるでしょうか?他人の足を洗うのも、小さくない抵抗があるでしょう。あなたには見られたくないと言われるかもしれません。あなたならいいと心をゆるし、足を差し出す人はいるでしょうか?あなたはその足を見て、これは汚いと言わずに、靴下に穴が開いていることを笑わずに、洗うことができるでしょうか?誰の足だったら洗うことができますか?
足を洗うには深い関係が必要です。それは相手の痛みを、自分の手のひらで包み込むような、相手を丸ごと受け止めるような関係です。自分の足を洗われるということは、自分をさらけだすということだからです。洗うことも洗われることも、深い関係の中でこそできることです。
自分の足を洗ってもらうのに、この人だけは洗ってもらっては困るという人はいるでしょうか?私が足を洗われて一番困るのは、自分より目上の人、自分が尊敬している人です。自分の憧れの人にこそ、汚い足を洗われたくないと思います。
足を洗われるという関係には、相当な親しさが必要です。もし皆さんがお互いに足を洗ってもいい、足を洗ってもらってもいいと思える人がいるのなら、その人とはとても親しい関係でしょう。汚れている部分や隠している部分を見せてもいい関係、弱さを見せていい関係が、そこにあるのでしょう。今日は足を洗い合うという関係について聖書から考えてゆきましょう。
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ヨハネによる福音書13章1~15節までをお読みいただきました。これは先生と呼ばれる地位のある人が弟子の足を洗ったという物語です。このことから私たちの生き方、私たちがどう生きるかを考えましょう。
当時から足を洗うというのは、今の私たちの感覚と同じです。嫌なこと、恥ずかしい事でした。2000年前、人々は舗装されていない泥だらけの道をサンダルで歩いていました。人々の足は私たちより、もっと汚れていたはずです。砂と汗と、長い一日の疲れが、その足にこびりついていました。奴隷や召使いは、客の足を洗う習慣がありました。家の主人のホスピタリティーとして、奴隷が足を洗ったのです。
しかしイエスはこの足を洗うという意味と関係性を、大きく変えようとしています。イエスはいわば主賓、メインゲスト、一番目上の人です。そのイエスが、弟子たちの汚れた足を洗うというのです。イエスがタライをもってきて、足を洗い、タオルでキレイに拭こうと、ひざまずいています。
弟子たちにとってこれは受け入れられないことでした。弟子たちはイエスとはそういう関係性ではないと直感しました。いつもお世話になっている先生です。先生の期待に応えたい、失望されたくない。プライドがあったはずです。先生の前ではしっかりした自分でいたいと感じました。先生の前では弱さを見せたくない。先生には自分の汚い部分を隠しておきたいと思っていました。しかし、それでもイエスは弟子の足を洗うと言います。弟子たちは困りました。決してそんなことをしないで欲しいと言いました。
しかしイエスは言います。「もし洗わないなら、あなたとわたしは何の関わりもないことになる」と。私とあなたの関係性は、この足をあらうという行為の中にあるのだと言うのです。イエスは弟子の足を洗うことによって、深い関係になろうとしたのです。「あなたの弱さや汚れを受け取らなければ、私たちは繋がることができないんだ」。イエスはそう迫ります。
少し角度を変えて考えましょう。イエスは「さあ俺の足を洗え」とは言わないお方でした。反対にイエスは弟子の汚れた足を洗おうとします。イエスは弟子にひざまずいています。イエスは弟子の足の指一本一本、指の間の汚れまできれいに洗い落としました。すべての弟子の足を洗いました。特に優秀な弟子の足を洗ったのではありません。とにかく全員の足を洗いました。そこにはこの後、自分を裏切ろうとしているユダという弟子の足まできれいに洗ったのでした。
そしてイエスは言いました「あなたがたは私のしたとおりに、互いに足を洗い合いなさい」それは「これからは、お互いの弱さを『絆』にして生きていきなさい」という意味でした。
この場面を、あなたはどう受け取りますか?最初の質問に戻ります。足を洗わせてくださいと言ったらどう感じるでしょうか?
イエスは私たちお互いに、足を洗い合う関係を求めています。イエスは他者との関係の“深さ”を問いかけています。あなたたちは、足を洗い合えるような深い信頼関係になれているかと問われているのです。
それは、私たちはお互いの傷も、汚れも、隠していることも、分かち合う関係になろうということです。人間とはいつも、お互いにいいところばかりを見せ合おうとするものです。できた箇所ばかり、きれいな写真ばかり見せ合って、喜びばかりを分かち合っています。
でも足を洗い合うとは、そうではありません。悪い事も、悲しい事も、痛みも傷も分かち合うということです。イエスはそのような関係ではなければ、何の関わりもないのと同じだと言っています。傷や痛みを分かち合わない関係、それではうわべだけの関係ではないかと言っているのです。
私たちにはよいところだけではなく、自分の傷や、痛み、弱さをさらけ出すことができる人がいるでしょうか?互いに足を洗い合いなさいという言葉は、それができる仲間づくりをしてゆきなさいという教えなのではないでしょうか?私たちは強がらなくていいのです。私たちは弱さや傷を絆にかえてゆくことができるのです。私たちには足を洗うということから、そんな生き方が示されています。
反対に、私たちは誰かの傷や、痛み、弱さに触れることがあるでしょうか?誰かからそれを打ち明けられることがあるでしょうか?あなたは隠していたはずの傷を見せてもいいと思われる人になることができているでしょうか。そんな風に信頼されているでしょうか?
私たちは今日の個所から問われています。私たちの生き方が問われています。それはあなたは他者とどのような関係を築いてゆきますか?という問いです。あなたはそのような関係を誰かと作ろうとしていますか?あなたは誰かに自分の傷や汚れを見せることができますか?あるがままの姿で歩き出す未来は描くことができますか?一番触れられたくない場所を打ち明けられる、そんな信頼をされる人になっていますか?誰かの傷や痛みを優しく受け止めることができる人になっていますか?そのようにこの物語から問われています。
そしてもう一つの励ましも受け取ってゆきましょう。私たちには神様がいます。もし神の存在を信じるならば、神の存在を仮定できるならば、神様になら遠慮せずに、何でも伝えることできるでしょう。神様という存在だったら本当の弱音を吐けるのではないでしょうか。神様と言う存在だったら、本当に汚い自分の足を遠慮せずに差し出せるのではないでしょうか?
私はその神様の存在を信じています。いい事も悪い事も、言葉にできないことも伝えることができる神様がいることを信じています。すべてを受け止めてくれる神様の存在は、きっと多くの人の人生を支えるものとなるはずです。お祈りします。
