「神に守られているんだよ」ヨハネ17章1~15節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝をします。大人もこどもも、初めての方も共に礼拝をしてゆきましょう。4月5月は初めて教会に来るという方が多い季節です。歓迎します。難しい話よりも、初めての方に届く言葉を探したいと思っています。

 

私たちはこの聖書という本を毎週、少しずつ読んでいます。それは私たちがここに書いてあるルールを守るためではなく、ここからどうやって新しい生き方を見つけてゆくかを考えるためです。今日は聖書からどんな生き方が問いかけられているでしょうか?共に読んでゆきましょう。今日はヨハネによる福音書17章1~15節までをお読みいただきました。イエスが弟子たちと別れる前の祈りが記されている箇所です。イエスは弟子たちと別れる前に、長く、たくさんのことを神様に祈っています。

 

イエスの祈りを聞いてみて、実にいろいろなことが盛り込まれすぎていて正直「難しい」「何を言っているのかよくわからない」と感じるかもしれません。でもその中に大切な言葉がでてきます。それは2節「永遠の命」という言葉です。

 

「永遠の命」と聞いてどんなイメージが浮かぶでしょうか?2節にはイエスは永遠の命を与えることができると書いてあります。「キリスト教を信じると“永遠の命”を受けることができる」。みなさんはそう聞いたらどんなことを想像しますか?嘘だと思う人がいるでしょう。だってキリスト教を信じた人でも死ぬではないかと。そうです。キリスト教を信じていても必ず死は訪れます。ではキリスト教の教える「永遠の命」とは何でしょうか? 

 

聖書の永遠の命とは、死なないことではない、と言われたらどう感じますか?永遠の命とは、永遠に変わらない愛の中にいることです。それは永遠に変わらない神様の愛の中にある命という意味です。もし、すでにその愛に包まれているとしたらどうでしょう?それが永遠だということです。それは神の愛はみなさんが、生きていても死んでしまっても永遠に変わらずに続くのだよという意味です。

 

神様は永遠にみなさんの命を愛し、命をあたたかく抱きしめてくださるお方なのです。キリスト教ではその中にとどまることを永遠の命を受けるといいます。そんな果てしなく、永遠に続く命、みなさんはあると思いますか?もしあるのだとした、その中に入りたいと思いますか?そこに入る時、変わらない神の愛の中に身を置く時、きっとそこには抱きしめられるような安心感があるでしょう。みなさんはそのような神の愛に守られている、と感じたことはありますか?

 

キリスト教の信仰を持つと、不安を持ったときに「大丈夫」と思えることがあります。理由なくそう思える、安心できる時があります。それが何かに守られているということかもしれません。永遠の命というと、言葉は重いです。しかしそれは、神様は私が生きている間も死んでしまった後もずっと守ってくれるという、安心の言葉です。

 

人生は自分で頑張って切り開くものです。頑張った分だけ、一生懸命生きた分だけ道が開かれてゆきます。でもそれだけではありません。あなたの人生には良い時も、悪い時も、頑張れている時も、頑張れない時もあるものです。私たちが良い時も悪い時も神様の愛は永遠です。あなたはそんな神様の守りが自分にあると思いますか? そのような永遠の命を知った時からあなたの人生はどう変わるでしょうか?神様がいて、永遠に温かく抱きしめられるとしたら、あなたの人生はどう変わりますか?

 

3節には永遠の命とはイエスを知ることだとあります。イエスを知ることが永遠の命につながっています。そしてこの知るとは勉強して習得することではなさそうです。学校で教わるような知識を得ることではありません。キリスト教の難しいことを勉強することでもありません。知る、それは心で感じるということです。体験的に感じることです。自分はひとりではない、きっと大丈夫と感じること、神様が守ってくれているということを、心で感じることです。といっても幻が見えるような、神秘的な体験というわけではありません。なんとなく感じるものです。自分は神様と何らかの関係にあると感じる感覚が大事です。信仰とは情報や理論ではなく関係性の問題です。私を知っている、私に深く関係を持っている神様が存在すると思う、それが知るということです。それが神様を知るということです。それは知識よりも体験、知識よりも経験、知識よりも感覚、知識よりも関係性です。私は神様の中にいる、温かさの中にいる、神のぬくもりの中にいる、それを感じることが、神を知ることです。あなたは自分も神が温かく抱きしめてくれると、そう感じるでしょうか?

 

愛に抱かれていると感じることが、永遠の命のはじまりです。信仰は「自分で頑張ること」ではなく、「守られていることに気づくこと」です。あなたは誰かに守られていると感じることができますか?

 

この神の愛を誰よりもこの地上にはっきりと伝えた人、それがイエス・キリストでした。イエスは神の永遠に続く愛を自分の態度で、自分の言葉で、はっきりと伝えました。イエスがこの世に来たのは、人々に神の愛を語り、また人々にそれを具体的に示すためだったのです。

 

イエスはその生涯で、神の愛に際限がないことを示しました。4節「業を成し遂げた」というのは、もう愛を伝えきった、自分の仕事は終わったという意味です。愛を伝える仕事をこの地上でやり切ったのだと言っています。イエスは地上での自分の仕事、人間に神の愛を伝えるという仕事をやりきった、と感じていたのかもしれません。イエスが神の愛を人間に教えたのです。

 

そしてこの後イエスにはもう一つ最後にしなければならないことがありました、それは十字架に掛かるという事でした。彼の伝えた愛は、時の権力者からは都合の悪いものでした。なぜなら上から抑えつける権力者には、平等で、あまねく人に永遠に与えられる愛は都合が悪かったからです。

イエスは権力者にとって都合の悪い愛を伝えたゆえに、命を失うことになります。しかしイエス自身もそれをわかっていたようです。自分はこのあと十字架で殺される、その前に神様にたくさんのことを語り掛けています。

 

そして気づかされるのは祈りの中でイエスは神のみではなく、同時に弟子たちをも見ているということです。イエスは弟子たちのことを祈っています。イエスは神様にこう祈っています。「この弟子たちはあなたの愛を知っています」「あなたにこの弟子を守って欲しい」「その愛を信じている」そして「彼らに喜びが満ち溢れるように」と祈っています。

 

これは深い愛の祈りです。このように私たちはイエスに祈られています。私たちは誰も一人でこの世界に生きているのではありません。イエスがあなたのことを祈っています。あなたは「守られるように」「人生に喜びが満ち溢れるように」と祈られています。あなたは今日それを聖書から読みました。それを心で感じることができるでしょうか?イエスに祈られているということを感じることはできますか?もしそれを感じることができるなら、知ることができるなら、信じることができるなら、あなたはもうすでに永遠の命を受け取っていると言えるでしょう。あなたがそれを信じられたら、どんな生き方になるでしょうか?

 

そしてもう一つ、あなたは祈られているだけではありません。あなたの人生には変化が起きるでしょう。それはきっと誰かのことを祈るようになるという変化です。あなたが誰かに祈られているように、あなたの守りと幸せが誰かに祈られているように、あなたも誰かのことを祈るようになるでしょう。自分が守られていることの安心と感謝だけではなく、私の仲間が世界の人々が守られることを期待し、祈るようになるでしょう。

 

あなたなら誰のために祈りますか?あなたは愛されているだけではなく、次はあなたが愛する番だとしたら、その祈りはどんな相手に対してですか?その人のために祈ってください。

 

黙祷をしましょう。耳を澄まして、心を沈め、永遠の愛と神様を感じましょう。今日の言葉に思いを巡らせましょう。