みなさんおはようございます。今日もこうして、大人も、子どもも、初めて来た方も、一緒に礼拝できることを感謝します。共に礼拝できることを感謝します。4月と5月は、特に「教会は初めて」という方にも届く言葉を探しています。
今日は、教会では「ペンテコステ」と呼ばれる日です。これはイースターから50日目にイエスが弟子たちに現れたことを記念する日です。イエスは、人を愛しなさいと語りましたが、権力を持つ人たちによって、十字架につけられてしまいました。しかし聖書は、イエスは復活したと語ります。その50日後に再び弟子たちの前に現れたと聖書は語っています。
聖書によれば教会はここから始まりました。ペンテコステは、教会が産声を上げた誕生日とも言える日です。世界の教会はそれ以来2000年間、私たちの教会は76年間、見えない風に押されるように、ここまで歩んできました。
そして導かれているのは教会だけではありません。私たち一人一人にも、きっと導きがある。そう信じています。人生は、自分だけで決めているように見えます。でも時々「自分だけではない」と感じる瞬間があります。不思議と背中を押される時があるのです。
たとえば、みなさんには「あの時の出会いは不思議だったな」と感じたことはありますか?神様の導きだと信じたいと思うことはありますか?今日ここに来たことも、何かの風に導かれたのかもしれません。他にこれまで神様の導きだったと感じること、あなたの人生であったでしょうか?
聖書は、人に届けられてきた言葉です。人生の途中で、人を支える言葉です。聖書は、もともとはギリシア語で書かれました。いまでは世界中の、数えきれないほどの言葉に訳されています。多くの言葉に翻訳されているということは、この聖書があなたにも届くために存在しているということを意味しています。
聖書は、専門家だけのものではありません。神様は「どうしたらあなたに届くだろう」と考えたのです。聖書は、あなたに届く形で語ろうとしています。その言葉は、今を生きるあなたへ、あなたが分かる形で語りかけようとしています。神はそのように、聖書の言葉を通じて、あなたを導こうとしているのです。
そしてあなたがもっともよくわかる言葉を選んで聖書の言葉を届けるのです。
そう考えると、神様はあなたに合わせるお方だということが分かります。あなたの歩幅に合わせるお方です。私たちが神様の言葉を聞くことができるように変わったのではありません。神様の方が、あなたに合わせた言葉を選んだのです。あなたに伝わるように、あなたに届くように、その言葉は語られています。
ここには、大事なことがあります。何語で話すのかという言語だけのことを言っているのではありません。神様はあなたに神の存在が分かるように、あなたにふさわしい形で語り掛けているということです。神は、あなたなりの感じ方を通して触れてくるのです。ある人には音楽を通じて語り掛けています。音楽を聴いていて、急に涙が出る時があります。神様はある人には絵を通じて語り掛けています。一枚の絵に、救われる人もいます。親子関係を通じて、幼稚園を通じて。介護で疲れた夜、不思議と支えを感じることがあります。悲しみの中で、誰かに抱えられているように感じる時があります。
神様はこのように一人一人違った方法を選んで導くお方なのです。
私自身はかなり計画を立てるタイプです。先週も教会のこれからの計画について協議をしました。教会の未来を考えていると様々な可能性に開かれていると、神様の導きを感じます。
実は私は、100歳までの人生計画を作っています。その日その時の思いよりも1年、5年、10年と長い期間を見渡しながら計画を立てるのが好きです。それは時々笑われます。「そんな先々の計画を立てて楽しいの?」とか。「どうせ計画通りにはいかないでしょ」と言われます。それでも私は、また次の計画を立てています。
時々、私は計画を立てていると「これは自分だけで考えた気がしない」「ここには追い風が吹いた気がする」と感じる時があります。その計画は確かに自分で考えて立てたのだけれども、神様がきっとこの計画を導いてくださると感じる時があるのです。神様は私に、計画の中で、風を感じさせています。それが私への神様の語り掛け方なのだと感じています。
計画を立てるのは苦手という人もいるでしょう。そういう人に対して神様はわざわざ計画を立てることを通じては語り掛けたりはしないでしょう。神様はそのような人には、ふっと浮かぶ直感を通して静かに背中を押すこともあるでしょう。若い頃と、年を重ねた今とでは、感じる風も違います。私も年齢を重ねればまた別の導き方を感じることがあるかもしれません。
神は、一人一人に違う形で触れます。きっとあなたに向けても、最適の言葉で、最善の方法で語り掛けているはずです。神様は今のあなたに一番響くように語り掛けてきます。あなたにもきっと神様に導かれていると感じる時がくるでしょう。それは他の人からは笑われるような、本当にそうなのと不思議がられる方法かもしれません。でもきっと導きがあるはずです。
必ずしも、誰かを通さなくてもよいのです。神様は案外、あなたにまっすぐと触れてきます。神は、遠くから命令するのではなく、あなたの日常の中に入り込んでくるのです。あなたは、どんな時に風を感じますか?あなたは何をしている時に、神様の導きを感じやすいでしょうか?その導きを感じるとしたらそれはいつでしょうか?神様はあなたを導こうと、いろいろな場面に導きを用意しているはずです。今日は、その風の話を聖書から聞いてみたいと思います。
聖書を読みましょう。使徒言行録2章1~11節までをお読みいただきました。ある時、弟子たちは一つの家に集まっていました。イエスが十字架に掛けられた後、イエスは何度か弟子たちの前に現れていました。それを復活と呼んでいます。しかしその復活をもって弟子たちが、世界中に増えたわけではありませんでした。人々にはまだ理解できないことが多かったのです。弟子たちは集まって祈っていました。どうしたらもっと神様の言葉が人々に届くのか?どうしたらもっと神様の導きを感じることができるのか?集まって祈っていました。
そこに神の霊が降り注いだとあります。霊とは風のようなものです。見えないけれど、そこに確かに存在する力のことです。窓を少し開けた時、カーテンがふわっと揺れるように見えない力、庭の木々を揺らすような見えない力、そのように見えない、けれども確かに存在する力が霊です。見えないのに、人を動かしていく力、それが霊です。霊が弟子たち一人一人の上に留まりました。そして弟子たちは、その風に押し出されていきました。
弟子たちに起こったのは、様々な国の言葉で話し出すという出来事でした。弟子たちは、その日初めて「世界」に向かって話し始めました。それまでは神様のことは、限られた人だけのものと思われていました。しかし今それは、世界中の言葉で語られるようになったのです。これは神様のことが世界中の人たちに向けて告げられ始めたという出来事でした。
それまでは一部の人を対象として、限定された人にしかわからないものでした。しかし今、その瞬間からすべての人が分かるようになったのでした。神様の導きは特定の人・民族だけにあると思われていたのに、そうではないとはっきりした出来事でした。
風は縦横無尽、自由自在に吹き抜けます。目に見えないけれど確かに存在します。それと同じ様に、世界中に風が吹き抜けます。あなたにも吹いているのかもしれません。そしてあなたにも神様の導きが起こるのです。信じているか、信じていないかに関わらず、あなたにも神様の風が吹きぬけ、あなたをゆっくりと動かします。風を受けた人はいつもとは違った行動をするようになるでしょう。今までのあなたからすると、酔っぱらっていると笑われる行動かもしれません。でも神様はそのように、あなたに語り掛け、あなたを導くのです。あなたが上を向いて歩けるような、少し前を向ける場所へ導いているのです。今までとは違う一歩へ押し出します。
神様はそのようにして、あなたを今までしなかった、新しいことへと導きます。また「もう無理だ」と思っていた方向へ、もう一度歩かせることがあります。それが神様の霊の力です。
あなたは神のみ言葉に励まされて、見えない後押しに背中を押されるでしょう。きっと新しい歩き方が始まる時があるのです。みなさんにはそんな導きを感じることができますか?もしかすると今も、その風は吹いているのかもしれません。お祈りをします。
