「2つのこだわり」Ⅰコリント11:23~26、マタイによる福音書28:19-20章

 

みなさん、おはようございます。今日もこうしてみなさんと一緒に礼拝できること、神様に感謝をいたします。4月5月は初めて教会に来た方に届く聖書の言葉を探してきましたが、ここからの2か月は今までずっと教会に通っている人に向けて届く言葉を探したいと思っています。

 

もちろん、初めて来た人に向けての言葉が、ずっと集ってきた人の心にも届くように、ずっと教会に集っていた人に向けての言葉は、初めて来る人にも届くことになると思っています。

 

実は私はこの1年間ほど、宣教について模索してきたことがあります。それはなるべく答えを言わないことです。すぐに答えを出すより、“問いの中に留まること”を大切にしたいと思うようになりました。

 

この宣教とはなんでしょうか?それは聖書の解説や答えが明かされる場所と思われがちです。でも今私が大事にしたいと思っていることは、私がみなさんに答えを教えることではありません。大事にしたいことは、神様のみ言葉が、みなさんの心に、どんな言葉として残るのか。皆さん自身がどう受け止めていくか、そしてどう生きるかが大事だと思います。

 

牧師が宣教ですべきことは、みなさんに答えを教えることではなく、問いを投げかけることではないかと感じています。1年間少しずつそれを意識し、心掛けてきました。聖書を読んで、一人一人が心の中でどう感じるかがもっとも重要です。それを問いかけ、引き出してゆくのがこの宣教の役割だと思っています。

 

一方で、キリスト教が2000年間、何を大事にしてきたのかを解説することも大切なことだと思います。答えが常に自分の中にあるとは限らないものです。みなさんにキリスト教が大事にしてきたこと伝えることで、それぞれの信仰理解が形作られてゆくはずです。そして知っているつもりでも知らなかったことにも気付くはずです。

 

この2か月間は、難しくなりすぎないように、解説になりすぎないように注意しつつ、キリスト教・バプテストが何を大事にしているものかを一緒に考えてゆきたいと思います。

 

考えるにあたっては、教会の信仰告白をテーマにしようと思います。教会の信仰告白は教会の定めた信仰のガイドライン、信仰の目安のような存在です。みなさんの手元にも2か月間置いておこうと思います。

 

信仰告白はこれに同意しないと入会できないというものではありません。自分の信仰とは少し違うということでもOKです。2か月間この信仰告白から信仰とは何か?神とは何か?私たちはどう生きるべきか?を一緒に考えてゆきたいと思います。

 

 

今日は信仰告白の8番、礼典について考えたいと思います。礼典とは何でしょうか。礼典とは、神様を“頭で理解する”だけではなく、“体で受け取る”ためのものです。水の中に深く沈められる、小さなパンを分かち合う。信仰は教えを知ることだけではなく、体験するものなのかもしれません。神様の働きを、

ただ頭で考えるだけではなく、体験として受け取る、礼典とは、そのために与えられているものなのかもしれません。

 

この礼典について考えましょう。私たちの教会の信仰告白を見ると「礼典は2つである」と書かれています。バプテスマと主の晩餐の2つだとあります。バプテスマとはイエス・キリストを信じる時に水の中に沈む儀式のことです。主の晩餐は今日このあと行います。イエス・キリストを思い出すためにパンとブドウジュースを飲む儀式のことです。

 

まず「2つである」という意味を考えましょう。私たちの信仰告白はあえて「2つだけである」と言い切っています。ここにはどんな理由があるでしょうか?礼典が2つしかないということは、実はかなり強いこだわり、譲れないものです。

 

私たちはプロテスタントの中のバプテストというグループですが、もう一つ大きな教派のカトリックでは礼典は2つではありません。キリスト教の中には、もっと多くの礼典を大切にしてきた教会もあります。

 

たとえば結婚式はカトリックの教会でもプロテスタントの教会でも行っているものですがその意味は違います。私たちは結婚式を神様の前で「人が誓う行為」として受け取ります。一方、カトリックは礼典(秘跡)として「神様の働き」という意味で持たれます。

 

似ているようで、意味は大きく違います。そして、その違いはその後の生き方、家族観や離婚などにも大きく影響してゆきます。結婚を“人の誓い”と見るのか、“神の働き”と見るのか。何を神の働きとして受け取るのか。そこにそれぞれの教会のこだわりが現れ、それが生き方へとつながっているのです。

 

なぜこのような違いとこだわりが生まれるのでしょうか?なぜプロテスタントでは礼典が2つなのでしょうか?それは聖書に明確にこれを行いなさいと書いてあることが、この2つだからです。今日は聖書の2か所お読みいただきました。それぞれバプテスマと主の晩餐の明確な根拠となる聖書箇所です。一方でそれ以外のことは、聖書に明確にされていません。聖書に書いてある「2つ」に特にこだわって、大事にするのがプロテスタントだと言えるでしょう。反対に幅広く、目に見える儀式を大事にするのがカトリックと言えるでしょう。

 

おおまかにいうと目に見える礼典を重視するカトリックで、一人一人の信仰を強く大切にしてきたのがプロテスタントです。

 

どちらが正しいかということを議論するつもりはありません。これは私たちが何にこだわっているかということを示しています。プロテスタントは2つにこだわっているのです。人はなぜ“こだわり”を持つのでしょうか?

 

そしてその中でもバプテストはもっと強いこだわりを持っています。バプテストとは特に洗礼(バプテスマ)に強いこだわりを持っているのです。

 

例えば生まれてすぐに赤ちゃんに洗礼をするというグループもあります。それは本人の意思に関わらず行われます。なぜなら洗礼は神様の一方的な恵みだからと考えるからです。しかし私たちの信仰告白にはこうあります「信じて自らの信仰を告白する者に授けられる」と。つまりこれは、本人の意思表明を最も大事にするということです。反対に言えば本人が意思表明、信仰の告白をしなければ、絶対バプテスマをしないということです。これは個々人の自覚的な信仰を大切にするという立場です。本人の自覚的信仰にこだわっているのがバプテストです。

 

またバプテストはバプテスマの方法にも細かいこだわりを持っています。ここにそのこだわりが記載されています。「罪の身が十字架に死に、復活において新しい生命にあずかることを象徴する浸礼の形でこれを守る」とあります。他の教会では洗礼(バプテスマ)は頭に水を垂らすという形式で行われます。しかしバプテスト教会では全身を水に沈めるという形を今も守り続けています。この1回きりのバプテスマを人生の転換点とすることにこだわっているからです。そしてバプテスト教会という名前はこのこだわりから来ている名前です。

 

そして主の晩餐のあり方も私たちはこだわりがあります。昨年度この意味を繰り返し考えて、新しい方法で、全員が食べるという方法を選んでいます。私たちは、かなり“こだわりの強い教会”なのだと思います。それが私たちバプテスト教会なのです。この教会の信仰告白8番礼典から、私たちが何を大切にし、何にこだわろうとしているのかが分かるのです。

 

キリスト教のどのグループも何かにこだわって信仰を持っています。それは小さな違いに見えて、大きな違いです。小さな礼典の違いが大きな生き方の違いにつながっています。生き方につながる問題だからこそ、礼典にこだわることは大事なことではないでしょうか?

 

むしろ、何にもこだわらずに信仰を持つことなどできるのでしょうか?そんな信仰は、何でもいい信仰になってしまわないでしょうか?偏らずに信仰を持つことなどできるのでしょうか?もちろん強いこだわりが人を傷つけることもあります。でも私たちの信仰にはこだわるところがあって当然なのではないでしょうか?

 

では私たちはこの信仰告白から何を問われているでしょうか?問いを考えましょう。

 

私たちは信仰にしろ、生き方にしろ“こだわり”によって生きています。みなさんは自分自身の信仰で、何にこだわりを持っていますか?私たちはみな、なにかにこだわり、偏り、特徴を持って生きているのではないでしょうか?みなさんは自分自身の生き方でどんなこだわりを持っていますか?みなさんの人生には、どんな譲れないもの、守りたい物がありますか?それが今日の問いです。

 

このあと主の晩餐を行います。私たちは小さなパンを受け取ってゆきます。これは本当に小さなものです。でもそこにはさまざまこだわりが込められているパンです。このパンをいただきましょう。そのパンはあなたに何かを問いかけているでしょうか?そのパンを受け取りながら、少し考えてみたいのです。私たちは、何を大切にして生きてい