みなさん、おはようございます。今日も神様に呼び集められた群れとして、一緒に礼拝できること、感謝をしています。私たちは私たちの教会の信仰告白について考えています。今日は「6救い」について一緒に考えましょう。
みなさんは、「救われる」と聞くと、どんなことを思い浮かべるでしょうか?心が軽くなること?病気が治ること?人間関係がよくなること?あるいは死んだ後のこと?
では、もう一歩聞いてみます。「あなたは救われていますか?」今日は救いについてザアカイの物語から考えてゆきましょう。聖書はルカによる福音書19章1~10節までをお読みいただきました。
ザアカイはエリコという関所のある町で徴税人をしていました。おそらくザアカイはその関所で税金を取りたてる仕事をしていました。それは人の弱さにつけ込んで、お金を取るような仕事でした。
貧しくて文句を言えない人から、多くのお金を取りました。だから人々から嫌われていました。「あいつは罪人だ」「仲間ではない」そう言われても仕方ない人生だったのです。しかしある日突然、彼に人生の転機、救いが訪れることになります。
イエスはこれまでも、多くの罪人と言われ、軽蔑された人間と共に過ごしてきました。ザアカイもそのことを知っていたでしょう。罪人と言われて、うとまれている彼は、イエスに会ってみたくなったのです。しかし多くの人が集まりました。ザアカイは人だかりに飲み込まれ、身長の低い彼はイエスを見ることができませんでした。そこで彼は木によじ登ってイエスを見ようとしました。そこからどんな景色が見えたでしょうか?
雑踏の中で、最初に声をかけたのはどちらからだったでしょうか?ザアカイでしょうか。イエスでしょうか。この順番には、大事な意味があるように思います。
そしてそれはイエスからでした。イエスから先にザアカイに声をかけました。その言葉はこうです「今日はあなたの家に泊まりたい」。
イエスの唐突な言葉です。イエスはわざわざ、罪人の家を選んで、泊まろうとしました。それは偶然ではありません。どこでもよかったわけではありません。イエスはいつも罪人に向き合おうとしました。罪人が選ばれる、それは偶然ではありません。イエスはザアカイに向き合おうとしました。神様は、見放されたと思っている人に先に近づく、そんな方なのです。
呼び掛けられたザアカイは急いで木から降りて、喜んでイエスを迎えました。そうです、これまで誰も、自分に関わろうとしなかった。
食卓で笑う家族を見た時、ザアカイは何を思ったでしょう。市場で誰かが笑い合う姿を見た時、どんな気持ちだったでしょう。「私は仲間ではない」と思っていたかもしれません。人々から嫌われる人生は、心を固くしました。誰にも期待しなくなる。「どうせ自分なんて」と思う。でも本当は、受け入れてほしい。一緒に笑いたい。誰かと食卓を囲みたい。そんな思いがザアカイにもあったのではないでしょうか。
そのザアカイの人生に今、イエスが突然、関わりを持とうと声をかけます。軽蔑されて当然の人生を送っている彼にとって、それはとても大きな喜びでした。こんな私の家に泊まりに来てくれるのか。私と語り合ってくれるのか。私と向き合ってくれるのかと、喜びを感じたのです。神様が私を見つけてくれたと思ったのです。イエスに見つけられ、声をかけられ、家に泊まると言われた瞬間が、ザアカイが救われた瞬間だったのではないでしょうか?
彼はイエスを招き、会話を始めると、すぐに自分の財産の半分を貧しい人に寄付すると言い始めます。そして奪った分を4倍にして返すと言い出します。彼の行動に注目をしましょう。彼の人生はイエスと出会って変えられています。ザアカイは心の安心や魂の安らぎを得ただけではありません。彼の人生には具体的な変化が起こったのです。救いは心の変化だけにとどまらず、生き方に具体的な変化を起こすものなのです。そして救われて、過去を水に流したのではありません。しっかりと過去と向き合い、償おうとしたのです。
そしてここには、もうひとつ別の救いもあります。それは彼からだまし取られた多くの貧しい人の救いです。だまし取られたお金が4倍になって戻ってきたら、貧しい人々の生活は大きく変わったでしょう。イエスは今日この家に救いが訪れたと言っています。それは多くの貧しい人々の元に経済的な救いが訪れたことも含みます。
そしてイエスは言います。「人の子は失われた者を探して救うために来た」これは、私たちが神を探す前に、神が私たちを探しているということです。声をかけたのはザアカイが先ではありませんでした。イエスが先でした。
救いとは、私たちが神を見つけることよりも、神が私たちを見つけることなのかもしれません。ザアカイを見ると、救いは交換条件ではないようです。まず先に、愛がある。まず先に、招きがある。信仰告白の言葉で言えば、それは神の愛と恵みです。
その一方的な愛と恵みをまず先に受けたもの、救いを先に受けた者が、それによって生き方が変えられてゆきます。愛された人は、変わり始めます。大切にされた人は、大切にし始めます。ザアカイもそうでした。まず先に救われたから、変わったのです。それが救われたものの新しい生き方です。それが今日の物語でザアカイに起こった一連の出来事だったのです。
さて、救いとは何かを考えています。救いとは何でしょうか?ザアカイを見ると、それは死んだ後の話だけではありません。今日、今、この人生の中で起こることなのかもしれません。
救いは誰に与えられるのでしょうか?ザアカイは、熱心だったから救われたのでしょうか。良い人になったからでしょうか?
物語によればきっと違います。ザアカイを見ると、イエスの方から近づいています。神様は、私たちが気づく前から働きかけているのかもしれません。先に愛と恵みがある。そんな物語に見えます。
イエスはザアカイに「あなたもアブラハムの子だ」と言っています。これは、もうあなたは私たちの仲間だという意味です。破れていた関係が取り戻されたという宣言です。
私たちの教会の信仰告白に目を移しましょう。ここには「救いは、罪を悔い改めて告白し、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって与えられる」と書いてあります。一方、最後の一文にはこうあります「救いは、ただ神の愛と恵みによる」と。私はここに、ひとつ大切な問いを感じます。救いは、頑張った人へのご褒美なのでしょうか?信じ切れた人だけが受け取るものなのでしょうか。でもザアカイを見ると、そうとも言い切れません。イエスの方から近づいているからです。みなさんはどう思うでしょうか?
最初の問いに戻ります。みなさんは救われているでしょうか?私自身はまだ救われきっていないと感じています。私には救われたと感じている部分があります。キリスト教に出会えたこと、神様からの励まし、生きる力をもらうことができたこと。人生のつらい時、支えになってくれるもの。助けてくれる仲間の存在。このことを救われたと感じています。
一方、まだ救われていないと感じる部分もあります。救われていない現実があります。人生には苦労が絶えません。病気もするし、挫折もするし、思い通りにならないことも多いものです。世界を見渡せば救われない人がたくさんいるではありませんか。戦争、災害、貧困。世界は一部で救われているけど、完全に救われてはいないと感じます。私はまだ、これから始まる救いを待っています。まだ見えません。だから今日も、木に登ります。ザアカイのように、いちじく桑の木の上で。世界の救いを。自分の救いを。待っています。
もしかすると今日、イエスの方から、私たちに声をかけているのかもしれません。
「急いで降りておいで。今日はあなたの家に泊まりたい」
みなさんにとって救いとは何でしょうか。私たちは、どんな救いを待っているでしょうか。そして今日。
イエスはあなたに、どんな声をかけているのでしょうか。
