「助け合いを起こす聖霊」ヨハネ14章15~17、25~26節

みなさん、おはようございます。今日も神様に呼び集められて、大人もこどもも一緒に礼拝できること、神様に感謝します。今月と来月は私たちの信仰告白について考えています。

 

みなさんは最近「ひとりでは無理だったな…」そんな出来事はありましたか?ありませんか。誰かが隣にいてくれて、なんとか前に進めた。そんな経験です。人は案外、助けられながら生きているものです。

 

私はときどき市役所に、ホームレスの方の生活保護申請の同行に行きます。

 

しかし実際に、ホームレスの方たちは申請に行くことに、気が引けてしまうものです。「人に迷惑をかけるようで嫌だ」「まだ我慢できる」「また今度にしよう」そう言って立ち止まり、次も「また今度」にしてしまう。気づけば一年、二年と過ぎてしまう。ホームレスの生活が何年も続くことになってしまうのです。

 

それでも教会には、どうしようか迷っているホームレスの方がよく来ます。私は「誰かの助けを借りて生きるのは恥ずかしい事ではない」「一緒に行きましょう」と背中を押します。そうすると「じゃあ明日、生活保護の申請に行ってみようかな」という気持ちになります。翌日一緒に市役所を訪ねます。

 

私はそのたびに思います。人は本当にひとりで生きられるのでしょうか。

 

市役所に行くと、どうしてホームレスになってしまったのかを話し始めます。涙が出る人がいます。怒りが込み上げる人もいます。言葉にならない人もいます。長い、苦労の人生を順序だてて短く説明するのは難しいことです。あふれる気持ちを整理して言葉にしなければいけません。

 

うまく言葉にならない時、私は横から言葉を足すことがあります。以前に聞きとったことを、本人に代わって説明をすることがあります。

 

ようやく、ひとしきり事情を伝えることができました。そうすると生活保護の申請用紙を渡されます。「ここに名前を書いてください」。多くのホームレスの方は字を書くことなんて何年ぶりだろうと戸惑い、手が震えます。「家族の名前と生年月日も教えてください」。何年も音信不通の家族の名前や生年月日はすぐには思い出せなくなっています。小さく笑って、少し泣きそうな顔をする人もいます。

 

私は励まします。「ゆっくりでいいよ」。ようやくできたのは、まっすぐではない文字の申請書です。でもそれは、生き直そうとする文字です。その日から自立のための施設に入り、屋根のある場所、布団で寝ることができるようになります。

 

なぜ私はこんなことをしているのでしょう。自分でも考えることがあります。私はこの活動を個人的なボランティアとしてではなく、教会の牧師として、教会の働きとして、活動しています。

 

ときどき素晴らしい活動だとほめて下さる方がいます。私も清らかな心で支援ができたらいいのですが、実際の腹の内ではそうでもありません。正直に言えば、私は立派ではありません。牧師なのに。「早く終わらないかな」「何で分かってくれないのかな」「これ以上関わるのはしんどいな」・・・心ではそう思いながら支援をしています。

 

私自身の腹の内はいろいろあります。それでも不思議と、また行くのです。重たい腰を上げてしまう。まるで私の背中を押す風があるかのようです。その風に背中を押されて、重たい腰があがります。

 

みなさんは最近、人を助けたことがあるでしょうか?反対に人に助けられた経験があるでしょうか?人は、助けたり助けられたりしながら生きています。その中で神様はどこで働くのでしょうか?

 

信仰告白とヨハネ14章をお読みいただきました。聖霊と言われても、少し分かりにくいかもしれません。でも、「あの時なぜか助けられた」という経験なら、みなさんにもあるでしょうか?

 

信仰告白には「聖霊はイエス・キリストによって約束された助け主だ」と書いてあります。そしてヨハネ14章には聖霊とは「弁護者」だとあります。

 

私たちは独りでは生きていけない時や、どうすればいいのかわからないことがありますよね?神様はそんな時、聖霊を通じて私たちを助けてくださるのです。

 

ヨハネ福音書14章26節には「弁護者すなわち父がわたしの名によってお遣わしなる聖霊」という言葉があります。ひとりで説明できない時、代わりに言葉を探してくれる人、「大丈夫、一緒に考えよう」と隣に座る人に聖霊は働いています。

 

市役所で言葉が出なくなる人がいます。そんな時、私は横から少し言葉を足します。聖書の言う「助け主」とは、そんな存在に少し似ているのかもしれません。

 

みなさんにはそんな風に助けになってくる人はいますか?困った時、隣にいてくれる人、私と一緒に考えてくれる人、代わりに声をあげてくれた人を思い出せるでしょうか? あれはただの善意だったのでしょうか。それとも、聖霊の見えない働きだったのでしょうか。

 

私たちの生活には誰かの助けが必要な時があります。だからこそ、助け主が与えられるという言葉は私たちの希望となるのではないでしょうか?困った時、私たちは本当に独りなのでしょうか?聖書は「違う」と言います。助け主がいる、と。

 

私たちには、聖霊を通じた助け手が与えられるのです。私たちが解決できないと思う問題に、神様の聖霊が働いた人、聖霊に動かされた誰かが、私たちに寄り添ってくれるのです。そしてそれは信仰告白によれば「約束されている」とあります。

 

もしかすると、その助ける人は自ら進んでというより、何かの風に・聖霊に押されるように、仕方なく、私たちを助けてくれているのかもしれません。人生には時々、少し風に押されるような瞬間があります。もしそんなことが起きているとしたら、それが約束された助け手なのではないでしょうか。

 

助けられた時、あとから思うことがあります。「あの人がいてくれてよかった」。そしてその方を動かしている助け主・聖霊に感謝をします。私たちはその助けを、聖霊に助けられたと思って遠慮せず受け取っていいのかもしれません。助けられることを、人に迷惑をかけてしまったと思うのではなく、聖霊に助けられたと思って、その助けを受け取っていいのかもしれません。

 

そして時々、気づけば私たち自身も助け手として立つことがあります。大したことではありません。話を聞く、代わりに伝える、「大丈夫」と言う。それだけかもしれません。神様の風に吹かれて、神様の見えない力を受けて、助けようと思うことがあるかもしれません。そのように人を助けるというのは、何かに突き動かされて始まるものです。

 

私たちの命はそのような見えない神の力、聖霊と助け手に支えられているのではないでしょうか?今日もきっと聖霊は人を揺り動かし、誰かの助け手としています。そして人は少しずつ変えられてゆきます。聖霊に助けられながら。聖霊に支えられながら。

 

そしていつか、自分も誰かを支える側になることがあるでしょう。助けられながらしか私たちは生きられないのですから。

 

神様は、空の上だけにいるのでしょうか。それとも、助けたり助けられたりする、その間におられるのでしょうか。信仰告白にある私たちの間に働かれるとは、助けたり、助けられたりする中に、聖霊の働きが隠れているという意味ではないでしょうか。そして助けたり助けられたりする関係の中に、信仰の導きと救いがあるのではないでしょうか?

 

みなさんにも、誰かに助けられた記憶があるでしょうか?あの時隣にいてくれた人、声をかけてくれた人、話を聞いてくれた人。あれは偶然だったのでしょうか?ただの親切だったのでしょうか。それとも、約束された助け主が、誰かを通してあなたを支えていたのでしょうか。

 

私たちはこれから主の晩餐の時を持ちます。今日の聖書の言葉を少し心に留めながら、私たちは今から主の晩餐をいただきます。主の晩餐の第二の意味には「イエスと弟子たちの食事には、豊かな交わりがあった、それを思い出すため」とあります。私たちは主イエスを中心とした豊かな交わり、豊かな助け合いを思い出しながら、このパンと杯をいただきましょう。神様から豊かにお互いに聖霊が注ぐように、互いに助け合いが起こるように、祈りながら主の晩餐をいただきましょう。お祈りします