みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも、初めての方も共にひとつとなって礼拝できること、心から感謝いたします。6月7月は私たちの教会の信仰告白について一緒に考えています。今日は「神」の項目について一緒に考えましょう。
ここに水の入ったコップがあります。この水は海と同じ水です。でもこの水から海を理解しようとするのは、あまりに難しいことです。私たちは小さなコップから海全体を理解することはできません。でもコップの水からわかることもあります。それは、海はコップと比べてとてつもなく大きいということです。海は比べ物にならないほど深く広いということです。私たちは海のことを全部知らなくても、コップの水から海の大きさを想像することはできます。海はコップの中に入りません。でもコップから海を想像することならできます。
私たちが神様について考えることも同じではないでしょうか?神様は、私たちの理解よりずっと大きな存在です。私たちの頭では少ししかわからないでしょう。でもきっとそこから、神様の愛の大きさを想像することはできるのではないでしょうか。皆さんは神様をどれくらい知っていると思いますか?あるいは、本当に神様を理解できる日は来るのでしょうか?
今日はコップがいくつあっても足りないほどの、海のような神様の愛の大きさを想像し、心で感じてゆきましょう。その広い海を少しだけ眺めてみましょう。私たちは海のように深くて広い、神様の愛の中に生きているのです。
私たちの信仰告白から一緒に考えます。
キリスト教は一神教の宗教です。一人の唯一の神を信じる宗教です。ただし唯一の神といっても、三位一体という考え方もあって、ただの“唯一”ではありません。
信仰告白でも神様の説明をしようとして、まずイエス・キリストの説明から始めます。唯一の神様はなぜイエスという形で現れたのでしょう?
神様は唯一でありながら、イエス・キリストという存在もいます。どうやら神様はひとりで働くわけではないようです。神様は啓示をするとあります。啓示するとは自分を現わすということです。
皆さんはどうでしょう。神様を遠く感じること、祈っても返事がないように感じることはないでしょうか?本当に神様はいるのだろうか。そんなふうに思ったことはありませんか。
だから神様はイエスとなって来られたのかもしれません。神様はイエスを通して、ご自身を見せようとしたのです。
神様は不思議なことに、直接ではなく人を通して語ります。旧約聖書では預言者を通じて、そして新約聖書ではイエスを通じて神様の声が届けられます。特にイエスはその誕生自体が、神様からのメッセージとなっています。
今日はヨハネ福音書1章を読みました。詩のような聖書の箇所です。「初めに言があった」とあります。言とは神様の思いと願いのことです。ヨハネ福音書も神様のことを伝えるのに苦労しています。ヨハネは詩のようにして伝えることにしました。まるでコップから海を想像するかのようです。
初めに言、神様の思いと願いがありました。そしてその言は肉となりました。それは神の思いが、肉体を伴ったという意味です。神様は遠くにいて思い願うだけの存在ではなくなりました。私たちにその存在を、見える、触れることができる形で示そうとしたのです。神様は肉体をともなって、人として、地上に来ることにしました。それがイエス・キリストです。神様はイエス・キリストとなって地上にやって来たのです。私たちが神に近づく前に、神の方が近づいてきたのです。
神様は唯一の神様です。しかし実際に神様はひとりで働くのではなかったのです。イエス・キリストという別の形をとって、神様はこの地上にやって来ました。肉体を伴った存在として神様は地上にやって来ました。唯一の神は、唯一のかたちではなく、イエス・キリストというかたちで地上に現れたのです。
神様はこのように、いつも誰かと一緒に働こうとしています。神様は合計3つのかたちで私たちに働きます。それが父・子・聖霊です。ここに3つのかたちがあります。
父なる神から見てゆきましょう。父なる神様は愛と恵みを持って、天地を創造しました。父なる神様は全ての命を創ったお方です。神様は命を創り、そして命の中でも特別に人間の命を愛しました。その愛ゆえに神様は天の上から人間を眺めているだけでは満足しませんでした。神様は肉体を伴って地上にやってくることにしたのです。
それが神の子イエス・キリストでした。父なる神は、子であるイエス・キリストを通じて、地上に自分を啓示しました。つまりご自分の愛をイエス・キリストによって地上に表したのです。
その愛はどのような愛だったでしょうか?それは地上で苦しむ人の隣に立つという愛でした。先週も考えたとおりイエス・キリストは地上で貧しい人、弱さを持っている人と共に歩みました。神様は肉体を伴って地上に来て、誰にも歓迎されない人の隣に座り、誰からも名前を呼ばれない人の名前を呼び、誰にも触れられない人に手を伸ばし、共に涙したのです。そのように愛を伝えたのです。
そして神様はもうひとつのかたちをとりました。神様は聖霊を使って、風のように私たちの背中を押しています。
なぜ神様は、ひとりで働こうとしなかったのでしょう?私たちの人生は唯一の神様が3つの方向から包んでいます。私たちは父、子、聖霊によって、囲まれて生きています。命を創造する神、愛を地上で実現してみせた神、風のように力を与える神が私たちを囲んでいるのです。私たちはそのように神様の3つの方向に囲まれて生かされているのです。
あなたの人生には3方向から神様が働いています。あなたの命は父なる神様に創られ愛された命です。神の子イエス・キリストは地上に来てあなたの隣に座ります、神様は聖霊を通してあなたに力を与え不思議な一歩を踏み出させます。それが三位一体の神様です。神様はこのようにして私たちを3つの方向から守り、導いているのです。
三位一体は教理としてはもっと難しいのかもしれません。私も海に対してコップほどの理解しかしていません。でもきっと大事なのは三位一体を完璧に説明できることではないでしょう。
大切なのはきっと、神様は私たちをあらゆる方向から守り、導こうとしていることを想像し、心で感じることでしょう。
神様は点のような存在ではないのです。神様は立体的な広がりを持った存在です。様々な方向からこの世界に充満しているのです。神様は見えないけど私たちを包んでいる空気のように、私たちを包み込んで、隙間なく空気のように満ちているのです。私とあなたとの間に、あなたとあなたの間に、私たちの間に、父と子と聖霊の神様が満たされているのです。そのように私たちは毎週、知らないうちに三位一体の神様の中に生かされているのです。
三位一体の満たされた私たちはどんな生き方が示されているでしょうか?この神様のあり方は、私たちの生き方にどう響くでしょうか?それが今日の問いです。
神様は唯一の存在でありながらも、ひとりではありませんでした。もし私たちが神様に似た存在として創られたのなら、私たちも誰かと共に生きるために創られたはずです。私たちもひとりではないはずです。神様に似せて造られた私たちも、仲間と共に協力して生きることへと導かれているといえるでしょう。神様が唯一であるように、あなたも唯一です。でも神様がひとりではないように、私たちもひとりではないのです。私たちは誰かと共に生きてゆけるのです。
そして神様が唯一だったけど、3つのかたちをとったということは、私たちにどんな生き方を示すでしょうか?それは違っているけどひとつだったということでした。
神様がそうであったように、私たちも同じではないでしょうか。私たちは姿形が違っても、同じ神様の作った命です。それは私たちが違いがあってもひとつになれるということを示しているのではないでしょうか?私たちは違っても互いに耳を傾けることができます。私たちは「あの人と私は違う」で終わりません。三位一体は、違いがあっても共に生きる道があるのではないか、そんなことを私たちに語りかけているのかもしれません。違いがあっても同じ食卓を囲めるのです。神様が違っていてもひとつであったように、わたしたちも違ってもひとつになれるのではないでしょうか。違いがあったら離れるしかないのでしょうか。それとも違いを抱えたまま共に生きる道があるのでしょうか。
三位一体は正しく知ること以上に、心で感じる事でしょう。私たちには三位一体の神様が共にいます。私たちはそれを心に感じ、希望をもって生きてゆきましょう。お祈りをいたします。
