みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも共に礼拝できること、神様に感謝をいたします。6月・7月は信仰告白について考えてきました。8月からは平和について、みなさんと考えてゆきたいと思います。特にルワンダで和解と平和のために働く、佐々木和之さんの活動に注目をして、福音とは何か?聖書がどのように私たちに新しい生き方を示しているのかを見てゆきたいと思います。
今月のテーマは“平和”を身近なところから考えてみたいと思います。私たちは、顔も見たくない、一緒に食事などしたくもないという人はいるでしょうか?誰しも様々な過去があり、傷があるものです。そのような人がいてもおかしなことではありません。でも今日はそれを不思議な力で乗り越えたというお話をします。
アフリカ・ルワンダでは1994年に大量虐殺がありました。ルワンダにはもともとあいまいな境界線しか持たない、ツチ族とフツ族という民族集団が住んでいました。しかし植民地支配の時代にベルギーによって明確化され、分断政策がとられました。この分断が火種となり、1994年、市民による市民の虐殺が始まりました。80万人もの人が虐殺されたと言われています。
佐々木和之さんはそのルワンダに行き、平和構築の活動をしてきました。今日はその活動の中でも「和解と癒しのセミナー」での出来事を紹介します。和解と癒しのセミナーでは、被害者側だった人、加害者側だった人が一つの場所に集まり、出会います。被害者の傷の告白と、加害者の罪の告白が行われます。考えるだけでも緊張感が伝わってくる場面です。
このセミナーの目的は加害者に罰を加えることではありません。私たちは薄々気付いています。加害者を罰するだけでは、被害者の本当の救いにはならないということを。またセミナーでは被害者に赦しなさいと強制することもありません。このセミナーは、被害者と加害者の双方が、どうすればもう一度安心して共に生きて行けるかどうかを探すことが目的です。そのためにはまず加害者が被害者の傷の重さに触れることが必要です。そして被害者が加害者の罪の告白を聞くことが必要です。
このセミナーに参加した、被害者のロランスさんという女性のエピソードを紹介します。彼女は虐殺で14人いた子どものうち13人が殺されてしまった女性です。彼女はセミナーでその悲痛な体験について涙ながらに語りました。
私たちの社会だったら加害者に対してどう接するでしょうか?しかし彼女はなんと、虐殺犯として刑務所に拘留されていたある囚人のために食べ物を届け始めました。どうしてその加害者側に立つ人に食べ物を届けることができるでしょうか?
刑務所に差し入れをするきっかけは、ロランスさんが、ある“夢”を見たからです。その夢はある囚人が裸で刑務所につながれているという夢でした。そしてどうしてもその夢は彼女の頭から離れませんでした。そして彼女は次第に、その夢は神様からの呼びかけであると理解するようになりました。そうして彼女は虐殺犯に差し入れを始めたのです。
やがてこの男性は病気が理由で、刑務所から釈放されることになりました。釈放されたその男性は彼女を頼り、家を訪ねます。数日間、彼女は自分の家に招きました。世話をしました。そして食卓を共にしたというのです。みなさんには加害者側の人と共に食卓を囲む、こんな行動を理解できますか?
私たちには理解し難い行動ではないでしょうか?まさか虐殺犯と食卓を共にするなんて。でも彼女にはそれができました、何かに押し出されるようにして。彼女は、それを神様の導きと信じて行動しました。そして彼女はその行動によって心に平安を得たと語ったのです。
しかし和解は簡単ではありません。彼女が食卓を共にした男性はまだ、虐殺当時のことについては沈黙を続けているそうです。彼女たちは和解には至っていません。まだその途上にあるでしょう。
ルワンダでは私たちの理解を超えるような出来事が起きています。佐々木さんはそれを聞き取り、和解は難しいが、始まりつつあるということを伝えています。
この話を聞きながら私はある聖書の箇所を思い出しました。聖書にも分断からの和解の物語が登場します。聖書の和解の物語を読んで行きましょう。
今日は創世記43章24~34節をお読みいただきました。創世記のヨセフ物語の一場面です。ある時12人兄弟がいました。一番父から可愛がられていたのが、ヨセフでした。兄弟たちはヨセフをねたんでいました。この兄弟には分断と亀裂がありました。その分断は、親の偏った関わり方によって作られた分断です。
兄弟たちはある日、ヨセフを殺そうとします。そして荒野に空いた大きな穴に突き落としたのです。11人の兄弟は彼がそのまま死ぬだろうと思って、そこを立ち去りました。しかしその数十年後、兄弟たちに再会の時がきます。人間の悪の企てが、神様によって善へと変えられる出来事が起きたのです。
ヨセフはエジプトで出世し、王に並ぶものとなっていました。そこに、飢饉に見舞われたボロボロの兄弟たちが、食べものを分けて欲しいと訪ねて来ました。被害者と加害者がここで出会います。ヨセフは自分を殺そうとした者への憎しみと、自分の兄弟への親しみの両方を感じたはずです。ヨセフの心は揺れます。そしてヨセフは葛藤の中であることを決めました。それはまず食卓を共にするということでした。涙の和解はまだ起きていません。赦しの言葉もありません。でもまず共なる食卓があったのです。そして彼はさらにたくさんの食料を持ち帰らせたともあります。
このあとも様々な葛藤が続きますが、やがてヨセフは自分はかつてあなたが殺そうとした兄弟だと、自らの傷を告白し、兄弟との関係の回復が始まってゆきました。
この食卓は和解への長い道のりのスタートと言える食卓だったのではないでしょうか?そしてこの物語には人間に起こる和解の葛藤が描かれているのではないでしょうか?被害者の葛藤があります。自分がどれほど苦しい思いをしてきたのか、いつそれを打ち明けようかという葛藤があります。そしてその人と人の間に驚くべき和解が起きてゆくのです。それは人間だけで起こされたのではありません。それは神様の物語として聖書に記されているのです。神様がもう一度向き合わせ、和解を起こすのです。
ヨセフの物語にもあるように、またロランスさんの体験にもあるとおり、和解は簡単なことではありません。でもそれは神様の力によって起きる可能性があるのです。神様によって関係が修復されていくのです。傷つけた人と、傷つけられた人が出会い直し、共に生きようとする、ルワンダではそのことが少しずつ起きてきているのです。
このようにして神様は分断された人々の間に立ち、再び出会わせ、また共に生きようとさせているのです。
私たちと平和について考えましょう。私たちにも分断があります。修復が想像できない関係があります。でも神様は諦めていません。神様によって少しずつ、驚くべき和解が起きてゆくのです。
私たちの周りでどんな和解が起きてゆくでしょうか?あなたは起きて欲しいと思う和解はありますか?私たちの家庭で、教会で、地域で。
少し世界に目を向けてみます。戦争をし合っている国を見て、きっと何年も、何十年も戦争をして殺し合ったことを忘れず、憎しみが続くのだろうと想像します。でも私は、きっと憎しみ合ってゆくだけではないという希望も持っています。傷ついた人と、傷つけられた人が出会い直し、共に生きて行ける世界が、もう静かに始まっているのです。和解とはこのように、忘れることではなく、もう一度出会い直すことなのかもしれません。
みなさんも考えてみてください。私たちは、分断のあるあの人ともう一度出会い直し、対話することができるでしょうか?今の自分達ではできないかもしれません。でも神様がその出会いへ招いておられるのかもしれません。
私たちはこれから主の晩餐を持ちます。イエスは敵と言われるような人々と一緒に食事をしたことを思い出します。神様が出会わせ、共に食卓を囲んだのです。そのことを記念してこの食事を持ちましょう。そして今日のヨセフと兄弟たちの涙の食卓、ロランスさんの食卓も思い出します。その食卓では、起こらないはずの和解を神様が起こしてくださいました。神様の導きによる和解が、私たちの世界にも起こることを願います。そしていつの日か、起こらないはずの食卓が、私たちの人生にも備えられることを願いながら、このパンをいただきましょう。
