福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章23節
今月は地域協働というテーマで宣教をしています。「こひつじ食堂」を始めてから地域の方たちとの交流が増えました。教会を訪ねる人は「昔からここに教会があるのは知っていたけど、入るのは初めて」と言います。教会は多くの人にとって、何をしているかわからない、敷居が高い、入りづらい場所でした。しかし教会の敷居は下がり、身近な存在になっています。それはお互いにとってかなり大きな一歩だと思います。私たちはこの人たちを勧誘するわけではありません。ミッションスクールのように、その人の人生の体験のひとつになりたいと思っています。今日は聖書から教会の敷居の高さを下げてゆくことを見てゆきたいと思います。
パウロというイエス様の弟子がコリントという地域にある教会に手紙を書きました。そこでは宗教的な熱心さにおいて違いがありました。例えば何世代も続く熱心な家系で、お腹の中にいる時から教会に来ていたという人がいました。一方で親は全く違う宗教で、最近コリント教会にき始めたという人もいました。新しい人から見るとその輪の中に入るのは大変です。そこに敷居の高さを感じたはずです。
パウロはそのような教会に対して「律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました」と言います。律法を持たない人とはいわば初心者です。初心者に対しては初心者のようになったということです。
手紙を書いたパウロ自身は超上級者です。しかしパウロは私のような超上級者を目指しなさいとは言いません。「私はすべての人に対してすべての人になった」と言っています。これはつまり私は上級者かもしれないが、最近来始めた人も、初めての人も、まだ迷っている人もいる、私はそういう人になると言っているのです。
私はこの個所「教会は敷居を下げなさい」と聞こえます。みんながいきなり上級者なわけではないのだから、初めてくる人や、迷っている人がわたしも大丈夫だと思えるように、敷居を下げなさいと言っている様に聞こえます。
もし初めて礼拝に参加する人と一緒に礼拝するなら、初めての人のようになることが大事なのでしょう。こどもがいたらこどものように、子連れの親子がいれば子連れの親子のように、高齢者がいれば高齢者のようになることが大事なのでしょう。それが、今日の個所にある「すべての人がすべてになる」ということでしょう。
私たちの教会はまだ中に入ったことのない人を、どんどん招き、迎えましょう。そしてこの新しい生き方をする仲間を得てゆきましょう。そのために入りやすい教会、敷居の低い教会になりましょう。私たち一人一人、すべての人がすべての人になってゆきましょう。そんな敷居の低い共同体になってゆきましょう。
そして私たちのそれぞれの1週間の集まりも同じです。私たちは様々な集まりですべての人になる、そのことを心がけましょう。私たちはそれを、共に福音にあずかるため、キリストにある新しい生き方を共に歩むためにしましょう。お祈りします。
すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 ルカ9章16節
今日からは1ヶ月間「地域協働」ということをテーマに宣教します。「こひつじ食堂」は毎月第3・第4金曜日にだれでも1食200円で利用できる地域食堂です。他の教会の食堂との一番の違いは、スタッフの半分が地域の方たちだという点です。
当初はボランティアの募集をするか迷いましたが、何も心配する必要はありませんでした。考えていることや動機は違っても、同じことのために一緒に働く、それができれば十分です。地域の方は教会をよく協会と字を間違えます。「私たちの教会は協力の“協”ではなく、教えるの“教”です」と訂正するたび、今の平塚教会は本当は、協力の協の協会の方がふさわしいのではないかと感じます。なぜなら平塚教会は地域の人と力を合わせて、誰かのため、地域のために、神様のために働く場所だからです。協会の協の字は十字架に力が3つ集まっています。平塚教会はまさしく十字架の下で力を合わせる場所です。私は今、教える教会よりも、協力する協会の方が私たち平塚バプテスト教会にはふさわしい様に感じています。今日は聖書から協力する集まり、きょうかい(協会・教会)について考えたいと思います。
13節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」は私たち平塚教会に語りかけられた“大食堂命令”です。今日は特に5000人の食事の中で、どれだけの協力があったのかを考えてみたいと思います。私たちの食堂から考えるとおそらく1000人の協力が必要だったはずです。当時のパンは一人3つで満腹になると言われていました。15000個のパンを配らなければいけません。
私ならこう言います。「1000人の協力が必要です。半分の500人はそれぞれ30個のパンをもって、ひとり3個ずつ、10人に配ってください。別の500人もそれぞれ10人に魚を配ってください。運び終わったらスタッフの方1000人もどうぞ一緒に食べてください。今、イエス様が歌って、祈って、裂いて、増やしていますから。おかわりは何回でも自由です。食べ終わって、余ったものは集めてこの籠にいれてください。最後の片付けもご協力をお願いします。」
今なら私たちはそこに1000人スタッフが力を合わせて食事を運んだことを想像できます。そして配った人がイエス様の弟子だったかどうかはあまり関係ないのではないでしょうか。そのような垣根のない協力が起きたのが5000人の食事だったのではないでしょうか。
私たちはもっとみんなと力を合わせる場所になることはできないでしょうか。この食事の様に、イエス様の奇跡の周りで一緒に働く1000人になることが出来ないでしょうか?私たちの教会の事、そして私たちの生活のこともそうです。私たちは垣根を超えて、いろいろな人と協力することがもっとできるのではないでしょうか。それぞれに考えてみたいのです。このあと主の晩餐を行います。この5000人の食事を思い出してパンと杯をいただきましょう。お祈りします。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
使徒言行録2章4節
信仰入門というテーマで宣教しています。湘南の海ではウィンドサーフィンをしている人をよく見かけます。風の力だけで沖まで行くことができます。昔は風の力で世界を巡りました。風は面白い存在です。風を目で見ることはできませんが、風に動かされているものを見て、風が吹いていると分かります。風は自由自在に吹き巡ります。夜風にあたると気分が落ち着きます。風は口では説明することがでず、体験でしか伝えられないことです。このような言葉を体験的言語と言います。
聖霊はおそらくキリスト教用語で最も難しい言葉だと思います。今日は風をヒントに聖書の聖霊をご紹介します。聖霊という言葉には息や風と言う意味もあります。風は人をどこかに運び、人の気分を変え、人に刺激を与える存在です。それは聖霊も同じです。聖霊を体験するとは、私たちが神様から来た風に吹かれることです。船が帆に風を受け、世界中どこまでも行くのと同じ様に、私たちが聖霊を受けるとは私たちは大きく進むことができます。
今日の聖書箇所では聖霊に満たされた人々に不思議な力が与えられます。いろいろな言語が人々の間を飛び交いました。そして外国から来た人々が驚きました。初めて自分の言葉で神様のことを聞くことになったからです。これは実は画期的な事件です。当時、聖霊はユダヤ人だけにしか、与えられないと信じられていました。しかしこの事件がきっかけに神様の風は、聖霊は、すべての人に与えられる、すべての人に吹くとはっきりしたのです。
この風・聖霊は今日もすべての人に吹き、すべての人に注がれています。神様の風は、聖霊は皆さんにもすでに吹いていて、すでに注がれているのです。あなたが信じようが、信じまいが、すべての人がこの風・聖霊をすでに受けているのです。
この風は私たちに思いがけない方向を指し示し、方向転換を求めるときがあります。風が私たちの想いを超えて吹くこともあります。私たちには苦しい時もありますが、神様はそのような時、私たちに憩いの風を送ってくださいます。
風まかせという言葉があります。無計画でなりゆきまかせを表す言葉です。でもクリスチャンはある意味で、風まかせの生き方をする人です。クリスチャンは神様からの風・聖霊をしっかり感じて、風をしっかりととらえて、どちらに進むべきか考える人のことです。クリスチャンは神様の風がどこから来ているのか、神様の風は自分をどこに向かわせようとしているのかを五感で感じとろうとする人です。クリスチャンは神様からの風・聖霊に逆らわずに生きようとする人です。
私たちはこのような風を感じる生き方を生きたいのです。この風はすべての人にすでに与えられているものです。私たちは新しい生き方を探します。聖霊から力を受けて進みます。みなさんはすでにその風に吹かれています。その風を感じて、神様から押し出されて1週間を過ごしましょう。お祈りします。
神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。 ルカによる福音書13章20~21節
4月・5月は信仰入門をテーマに宣教をしています。今日はからし種のたとえと、パン作りのたとえの話をします。これは神の国を説明するためのたとえです。神の国とは死んだ後に行く天国とは違います。神の国とは、神様が求める、理想の世界のことです。神様の願っていることが、隅々に渡って実現してゆくのが神の国です。今日はその神の国がどのように実現されてゆくのかを考えます。
からし種とはマスタードの粒です。からし種は他の植物よりも小さな種であるにも関わらず嫌われ者です。なぜなら繁殖力が高く、一粒地面に落ちると、ものすごいスピードで広がってゆくからです。イエス様は神の国を、嫌われている植物が、大きくなる様子に似ていると言います。神の国はやっかい者として、異物として始まるのです。でもそれが広がりみんなの憩いの場所となるのです。
続くのはパン作りの話です。この話は聖書には珍しく女性が主人公のたとえ話です。3サトンの粉からパンを作るとありますが、これは約100人分のパンです。34kgの粉を混ぜるのは相当な重労働です。おそらく貧しい女性か、奴隷や下働きの女性だったでしょう。神の国の実現の担い手となる女奴隷の話です。
パン種とは要は腐りかけのパンです。当時は残って腐りかけたパンを粉に混ぜてパンを発酵させたのです。これのおかげでふわふわのパンになります。聖書におけるパン種は不浄、悪、腐敗の象徴としてよく登場します。イエス様の教えた神の国とは不浄を象徴するパン種が大量の粉の中に混ぜられていくイメージです。パン種もからし種も、距離を取りたい対象です。しかし神の国では違います、神の国ではそれらは混ぜ合わされるのです。
私たちは、神の国とは汚れがなく、不純物が徹底的に取り除かれた先にあるのだと想像します。でもイエス様の神の国、神様が喜ぶ世界とは人やものが混ざり、やがて憩いの世界となるのです。
からし種とパン種を聖書の教えと置き換えてみましょう。もしかすると聖書の教えは自分とは相いれない価値観かもしれません。しかしそれから全体が変化し、神様の理想へと近づいてゆくのです。からし種とパン種をそれぞれの出会いと置き換えてみましょう。人生には自分と全然違う人との出会いがあります。私たちはそれにイライラしながら生きています。でも神様はきっと混ぜ合わせてくださるお方です。私とあの人をパン種と粉のように、どちらがパン種でどちらが粉だかはわかりませんが、神様はこの二つを混ぜ合わせ、パンとするお方です。神様は私を、私と違う人や違う教えと出会わせ、そしてまぜこぜにします。そこが神の国なのです。
私たちの次の1週間、どのように自分と違う人と共に、聖書の教えと共に、生きてゆくことができるでしょうか。それぞれの場所で神の国が実現するように願います。お祈りします。
あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
ルカによる福音書15章4節
信仰入門というテーマで宣教をしています。今日は100匹の羊と羊飼いの話をします。国連では「持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)」を掲げています。それは「誰も置き去りにしない社会」を作る目標です。大きな開発をよりも、小さくても持続可能な開発をたくさんすることが目標です。そのように世界は「誰も置き去りにしない社会」を目指しています。
「誰も置き去りにしない社会」と聞いて、置き去りにされた1匹の羊をめぐる物語を思い出します。聖書は2000年前からSDGs、誰も置き去りにされない社会を訴えていました。しかし、そのような社会はこれまで実現できずにいました。今日は聖書から誰も置き去りにしない社会と、生き方を見てゆきたいと思います。
ある時、羊飼いと100匹の羊がいました。しかし羊飼いは羊を1匹見失ってしまいました。これでは羊飼い失格です。しかし羊飼いは間違えを犯してもやはり100匹の羊飼いです。羊飼いは99匹の羊を野原に置き去りにして1匹を探しにいきます。それは非合理的ですが、羊飼いは1匹を探しに出かけます。羊飼いは1匹でも、置き去りにしないのです。羊飼いは羊を見つけ出し、再び仲間に加えます。
この物語から私たちの社会、私たちの生き方について考えます。私たちの社会は1匹を置き去りにしてしまう社会です。多数を優先し、少数者・マイノリティーを置き去りにしてしまう社会です。私たちはこの物語を通じて神様から、誰かが置き去りにされていないか注意を促されています。
この羊飼いと私たちを重ねます。私たちはいつも1匹を見失ってしまう存在です。でも羊飼いの仕事は1匹も置き去りにしないことです。99匹を説得することです。私たちも一人も取り残さない社会を目指してゆきましょう。
私たち自身を99匹の羊と重ねる読み方も大事です。私たちはいつも自分を多数派、自分が普通、自分が優先されて当然と思ってしまう存在です。そうではなく私たちは1匹のために多少の危険や遅れを引き受けてゆきましょう。
私たちは誰一人置き去りにしない社会、世界、家族、教会を願い求めてゆきましょう。羊飼いのように1匹を見失わないようにしましょう。もし見失ってしまってもその1匹を一生懸命に探す者でいましょう。そして99匹のように、1匹のために足を止め、待ち、共に100匹となってゆきましょう。私たちがいる、それぞれの場所で、そのような人がいないか、私たちはよく見つめて1週間の生活をしましょう。それがキリスト者の生き方ではないでしょうか。お祈りします。