「愛を生き抜いた十字架」ヨハネ6章60~71節

このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。

ヨハネによる福音書6章66節

 

最近の平塚バプテスト教会の礼拝出席人数は増加傾向にあります。私たちの活動や信仰が少しでも理解、共感、支持、応援されることはうれしいことです。ただし私たちの教会の目標は、人数を増やすことではありません。私たちがここに集うのは互いを愛し合うため、互いに仲良く生きていくためにここに集っています。その結果として人が増えるだけです。人数を目標とし始めると、愛し合うことよりも、人数を集めることが先だってしまいます。今日は聖書から、共同体に多くの人が集まった時のこと、そこで愛を貫いたイエス様の姿を見てゆきたいと思います。

今日の個所は奇跡のパン・主の晩餐を受けて、弟子たちが増えて拡がった後の話です。イエス様自身が、弟子の拡大に派手に失敗をしている様子が書かれています。弟子たちの拡大の先には、大きな分裂がありました。イエス様でも人数が増えるとうまくいかないことがあったのです。

イエス様はそれを悲しんだでしょう。しかしイエス様は去っていく人たちを追いかけませんでした。引き留めるための新しい説得も、自分の方針をもっと人々に受け入れられやすいものとする変更もしませんでした。イエス様はただ淡々と町を巡ります。そしてこれまでどおり、互いに愛し合うこと、大切にしあう事、仲良くすることをまた言葉と行動で教えました。イエス様にとって誰かが自分を離れようと、誰かが自分を無視しようと、誰かが自分を殺そうとも、関係ありませんでした。ただ自分が神様に従うかどうか、自分が愛するかどうかだけが重要なことだったのです。イエス様はその後も活動を続け、人々の反発を招き、殺されてしまいます。殺されないためには方針転換が必要でした。しかしイエス様は方針転換をしないのです。ただ神様に従うということ、他者を愛することを貫きました。

私たちの生活に目を向けます。私たちは神様・イエス様ではありません。ですから他人の意見をよく聞くことは大事です。しかし一方で私たちは他者の態度に振り回されてしまうことばかりです。他者の態度や行動に傷ついたり、落ち込んだりすることばかりです。きっとイエス様もそうだったのでしょう。私たちは他者との関係において一喜一憂することがあります。私たちにはうまく関係が作れた時、うまく関係が作れなかった時があります。でもその時も私たちはイエス様のように愛し続けましょう。イエス様のように相手を大切にし続けましょう。

私たちの日常には離別、裏切り、関係の破綻があります。でもその中で、私は神様の愛をどう生きてゆくかが問われます。そこで問われているのは相手の愛ではなく私の愛です。私がどう生きるか、私が神様の愛をどう生きるかが問われています。私たちの1週間もこのことを覚えて生きましょう。この後主の晩餐を持ち、パンを食べます。私たちは食べた後、どう生きるかが問われます。これは神の愛を受けて生きる象徴です。このパンを食べ、どんな時も他者を愛しましょう。祈ります。

 

「聖書の女性指導者」出エジプト記15章19~21節

ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。     出エジプト記15章21節

 

ジェンダーというテーマで宣教をしています。男女あらゆる性の人が、役割を押し付けられたり、奪われたりしない平等について聖書から考えます。戦後、日本バプテスト連盟の多くの教会は、アメリカ南部バプテストの莫大な支援を受けて設立されました。しかし日本のバプテストは2000年にアメリカ南部バプテストが「女性は牧師になってはいけない」と明言したことから距離を置くようになりました。女性を牧師として認めないというアメリカ南部バプテストの方針は今もまだ継続しています。一方、日本のバプテスト連盟でも大きい教会は男性牧師、小さい教会は女性牧師という現象が起きています。根底にある私たちの考えが問われています。

私たちの社会は表面的には平等のように見えて、実はまだこのような格差、男女や性による明らかな不平等が起きています。まだまだ男性が上、女性が下という考えがどこかで残っているのではないでしょうか。そのような偏見と差別から解放されたいと願って聖書を読む時、聖書で活躍する女性たちに目が向きます。

今日の聖書箇所のミリアムはアロンの姉であり、モーセの姉でもあります。ユダヤの人々は奴隷とされたエジプトを脱出しました。しかし目の前には海があり、後ろにはエジプトの追手がいます。そんな絶望の時、神様は海を二つに割り、道を作って、向こう岸へと逃げることが出来るようにしてくださいました。このような体験は、自分たちのルーツとして語り継がれ、やがて聖書に記載されました。

この様子は15章で2つの歌として記録されています。おそらく短い伝承であるミリアムの歌がオリジナルの伝承です。それを拡張し、付け足した言葉がモーセの歌として伝承されました。おそらくもともとミリアムはグループの中で有力な指導者だったのでしょう。太鼓をたたいたミリアムの後に大勢の女性が続きます。それは危機から脱した時の喜びの祈りです。神様のすばらしさを表現するために踊りました。おとなももこどももみんな関係なく、踊りました。みんなで歌いました。性別を超えて、神様のために歌ったのです。ミリアムはそれを導く女性指導者でした。

ミリアムは民衆に向けて、さあみんな、神様のすばらしさ、神様が私たちを助けてくれたことの感謝、それをそれぞれで表現しようと促しました。ミリアムはこのような立派な女性指導者でした。女性牧師のルーツとも言えるでしょう。このように神様は女性であるミリアムをリーダーとして、牧師として立てて下さいました。このように神様は男性、女性、あらゆる性に関わらず、用いてくださるお方です。

私たちの世界では、まだ多くの男女の格差・差別が残っています。それは特にキリスト教の中で驚くほど根強く残っています。私はもっとそれから自由になりたいと思っています。もっと平等になりたいと思っています。神様がそのような抑圧から、私たちを導き出してくださると信じています。私たちの世界がもっと平等に、もっとシャローム・平和になってゆくことを願います。お祈りします。

 

「こどもの命をつないだ人たち」出エジプト1章15節~2章10節

助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。

出エジプト記1章17節

 

教会には女性会というグループがあります。性の多様さから考えると性別でグループを作ることには課題があります。一方で女性だけが集まるのことに様々な良い面があります。同じ性・似た性の人が集まる場所だからこそ、打ち明けることができる話や悩みがあります。また男性中心主義が残る社会や教会において、女性たちが集まるということは意義のあることです。そのようなグループは社会や教会で中心から隅に追いやられた存在に目をとめ、中心へと戻してゆく視点があります。男も女もなく、どの性も平等です。だからこそ女性や少数派の人々に目を向けてゆくことが大切です。今日と来週は聖書の中の女性を見たいと思います。

ファラオはヘブライ人の人口を増やさないために、二人の助産師(シフラとプア)を呼んで、男の赤ん坊が生まれたら殺せと命じました。しかし人口を減らすなら、男女性別にかかわらず全員平等に殺した方が早いはずです。ファラオが女性を殺さないのは、女の奴隷は高く売れたからです。あるいは女性は生きていても政治的な影響力が無いからです。だからファラオは生まれた男だけ殺せと命令をしました。

助産師の女性たちは神様を畏れていました。さらに二人は実体験から命は神様から授かったものであると知り、男性であるファラオの命令に従いませんでした。彼女たちは社会の中心から追われる命に対して、特別なまなざしを持ち、その命を守ることこそが神様への信仰なのだと確信したのです。彼女たちはできる限りの抵抗をしました。それは小さな命を守るための非暴力の戦いです。

2章1節からはもう一つの物語です。ある女性が男の子を出産しました。見つかればすぐに殺されてしまうので、赤ん坊をカゴに入れて川に流しました。そしてその命を受け取ったのも女性でした。彼女はそのこどもをファラオの政策に反し、自分の息子として育て、やがて彼は解放のリーダーに成長します。このように、この物語は政治に反対した女性たちが小さな命を守るという物語です。

女性たちの小さな決断のつながりが、小さな命を救いました。この物語に登場する女性たちはみなこの小さな命への慈しみにあふれています。男たちが支配する世界で彼女たちは考えました。どのようにしたら平和に生きることができるだろうか?どうしたらこどもたちを守ることができるだろうか?と考えたのです。そのように彼女たちは命を守り、平和を実現させるための働き人だったのです。

私が今日の個所を読んで思うのは、社会の中心から外された人に目をとめてゆきたいということです。平和と和解の働き、こどもたちへの働きなどは、中心から外されてしまう人に目をとめてゆく、大切な働きです。男も女もどの性も、その小さな命を守るために働く社会になって欲しいと思います。私たちの教会でも同じです。性別に関わらず、社会の隅に追いやられる人の命を守り、再び中心に据えてゆくことができるように共に祈り、働いてゆきましょう。お祈りします。

 

「ちゃんと休みなさい」出エジプト記16章1~31節

よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。   出エジプト記16章29節

 

明日から休息に感謝します。社会では休息をとることについて大きく意識が変わってきています。残業時間の上限が設定され、仕事と生活のバランスが重視されるようになりました。社会はがむしゃらな労働と、それによる成長・安価な商品を求めるのをやめたのです。社会は充実した安息の重要性を理解したとも言えるでしょう。このお休みを神様が準備して下さった安息だと受け止め、感謝し、また次の働きに向けて備えたいと思っています。

今日はマナの個所です。人々は過酷な労働からの自由と安息のために、エジプトを脱出しました。しかし食料の確保が困難でした。彼らは目の前の困難を、過去を理想化することで乗り越えようとしました。そこに神様の言葉が響きます。

神様はすべての人にパンを降らすと提案しました。あなたたちはそれを食べ、命をつなぐようにと提案をしたのです。そしてそれは毎日ちょっとずつ集めればよいという提案でした。大きな倉は必要ないのです。無理にたくさん集める必要はないのです。反対にこのマナを無理に集めることこそ、過重労働、働きすぎです。とにかくたくさん集める、たくさんあればあるほど幸せになれるから、1gでも多く集めるためにがむしゃらに休まずに働く、そのような労働は必要ないのです。

また自分が食べきれない分までマナを集める人がいました。それは富の独占と蓄積を連想させます。その富には虫が湧き、腐り、悪臭がします。神様は過度な富の蓄積を嫌ったお方でした。神様は、人間が働きすぎることなく、蓄えすぎることなく生きることを求めているのです。

そして神様は安息の日も用意してくださるお方です。日々日々働きすぎるだけではなく、1日まるごと休む日も与えて下さったのです。神様はこのように働きすぎを禁止しました。今日は何をしてもうまくいかない日、だから休みなさいと言って安息の日を定めたのです。20節は「ちゃんと休みなさい!」という意味です。30節「民はこうして、七日目に休んだ」とあります。

神様は何と恵み深い方でしょうか。不満に、怒りで返すのではなく、マナという食べ物で応えてくださるお方です。そして神様はなんとおせっかいなお方でしょうか。私たちに「ちゃんと休みなさい」と厳しく教えてくださるお方です。働いても何も成果のない安息日を与えてくれるお方です。神様はそのように私たちを大切に思い、生きる糧を与え、強制的な安息を与えてくださるお方です。

みなさんの忙しい1週間の中でふさわしい休息が与えられる様にお祈りしています。私達にはすべきことがたくさんありますが、焦らずに、安息をしながら歩みましょう。これから主の晩餐の時を持ちます。このマナをいただき、神様が与えてくれる恵み、神様が与えて下さる安息を覚えましょう。お祈りします。

 

「性的少数者 歓迎教会」使徒8章26~40節

道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」使徒言行録8章36節

 

今月は聖書と性・セクシャリティーについて考えています。今日は宦官について考えます。宦官とは、睾丸や陰茎を切除した男性です。旧約聖書は宦官は「主の会衆に加わることはできない」つまりユダヤ教に入信することができないとしています(申命記23章2節)。どんなに信仰があってもユダヤ人になれず、神殿に入ることは許されなかったのです。旧約聖書を見ると宦官が好意的に描かれている場面が多くあるものの、やはり軽蔑すべき存在だったのです。

今日の聖書箇所は、エチオピアからエルサレムに来た宦官の物語です。宦官は聖書に興味があり、聖書の神を求めました。しかし彼は排除されるべき存在でした。体の一部が無い、完全な男ではないから、神殿には入ることができないと排除されたのです。その時、彼の信仰や内面は一切関係ありませんでした。彼の外形的な性が判断基準とされ、神殿から排除されたのです。彼の信仰は打ち砕かれたでしょう。失意の帰り道、神様はフィリポを遣わしました。神様は排除された性的少数者との出会いを導いたのです。そして宦官はバプテスマへと導かれてゆきます。

宦官は「バプテスマに何か妨げがあるますか」と確認します。これまで彼は性的少数者として、社会から、神殿から徹底的に排除されてきました。それはこんな私でも洗礼を受けることができるのですか?クリスチャンになることができるのですか?キリスト教では、私もその仲間に加わることが出来るのですか?という問いです。フィリポは速やかにバプテスマを実行し、それに応えています。フィリポは性的少数者を排除しなかったのです。宦官は喜びあふれたとあります。キリスト者が差別せずに受け止めてくれたという喜びです。宦官は何の妨げも無くキリスト者として受け入れられることを通じて、神様を知りました。神様はこの私を受け入れ、守ってくださるのだと知ったのです。

現代の教会、社会とも重ねて考えてみましょう。多くの性的少数者が、その性を否定されています。性的少数者の人々は、それは罪だと言われ、教会から排除され、追われるように逃げ、失意の中で帰り道を歩いていました。しかし今日の個所によれば、性の在り方は入信・バプテスマの条件に一切なっていません。教会はそのようにすべての性を受け止めてゆくことができるのです。すべての性を罪としないことができるのです。それが今日この物語が伝えている福音です。

この宦官は異邦人の中で最初に洗礼・バプテスマを受けた人となりました。性的少数者である彼から、世界中にキリスト教会が広まっていったのです。私は性的少数者の方がそのままの性を生きることを、神様は何も妨げないと思います。神様はそのような人を用いて福音を拡げるのだと思います。私はこの教会が性的少数者の方が来ることに何の妨げもない教会になるように願っています。そのようにしてすべての人を歓迎する教会になりたいと思っています。お祈りします。