コリントの教会の人たちは「高ぶる」という状態にあった。高ぶるということは、「仕える者」とは全く反対の立場をとるということである。
パウロは、コリントの教会の中に争いがあることの根っこに「高ぶる」ということがあることを見抜いている。教会のリーダーたちをあれこれ批評して、誰が一番知恵があるかなどと言っていた。だから、「一人を持ちあげてほかの一人をないがしろに」する(6節)ことのないようにと苦言を呈している。
教会の中で共に生きることが出来なくなることの根底には「高ぶり」のあることを私たちは経験上知っている。教会の中にいつの間にか見えない形のヒエラルキー(階層)が出来上がっていることがある。例えば高い学歴があるかどうか、社会的地位があるかどうか、経済的に豊かであるかどうか等々によって、それらを所有している人がいつの間にか高ぶったり、そうでない人を見下げたりする危険がある。これは何も教会だけのことではない。どこの集団、組織でもそうだろう。
パウロはそのようなコリントの教会に対して、「高ぶることがないように」と諭しているが、7節以下はかなり皮肉っぽく、時に激しい言葉をもって語っている。パウロがそこまで言わなければならなかったのは、「あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子どもとして諭すためなのです(14節)と、その理由を述べている。およそ、教会の中で「諭す」ことほど難しいことはないかもしれない。諭す人と諭される人の間に信頼がなければ、諭すことは失敗に終わる。
しかし、諭すことが生かされる道はある。少なくとも二つの条件が必要である。「愛する自分の子どもとして諭す」(14節)とあるように、諭す人が愛をもって諭しているということが第一の条件である。権威主義的になって、ある地位を振りかざしたり、知識や経験をちらつかせたりするのではなく、その人に仕え、その人を愛する心があるかどうか、そこが問われることになる。
第二の条件は「私に倣う者に成りなさい」(16節)とパウロが言っているように、自分たちが自分の生活をみんなの前でオープンにし、それに倣うようにと勧めるに足る生活をしていることである。「率先垂範」である。人に先立って模範を示すこと。だから、諭す人が諭せるかどうかは、言葉をもってするよりも、その人の「生き方」をもって諭せるかどうかということになる。
パウロは、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこの私に倣う者となりなさい」ということのできた人だった。もちろん、パウロといえども人間なのだから、完全無欠であるなどとは思ってもいないし、そういうことを言いたいわけではない。ただ、その生き方がキリストの生き方に従っているかどうかということを言いたかったのである。それは主に全き信頼することである。人を見るのではなく、主を見上げて、信頼し、従っていくことである。