「出会いは人生を変える その2」 ルカによる福音書19章1-10節

イエスから、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と呼びかけられたザアカイに何が起こったのか。聖書はその出来事を順序正しく次のように記している。「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」(19:6-8)。
 
 ここで何が起こったのか。ここには、ただ、イエスが人々のつぶやきにもかかわらずザアカイの家に入ったこと、ザアカイが自分の財産を人々に差し出す決心をしたことが、淡々と記されているだけ。
 
 ザアカイの申し出は、当時の律法の規定以上のものを弁償しようとするものであり、そのことは、ザアカイが今までの自分の行為を深く反省して、罪として自覚したことが明らかである。すなわち、ザアカイはイエスと出会って、自分の罪に目覚めたと聖書は告げている。エリコの町の権力者であり金持ちであったが、人々からは嫌われ、のけ者にされていた男が、お前の家に泊まろうというイエスの愛に触れた時、ザアカイは自分が犯してきた罪を自覚して、イエスの前でそのことを告白し、ゆるしを乞うているのである。
 
 私たちが求める「出会い」は、自分にとって好都合なもの、自分中心なものが多いのではないだろうか。自分が有利になったり、得をしたり、励まされたりすると、「良い出会いがあった」ということが多く、そしてその人たちと仲間のグループを形成したりするのである。しかし、出会った人から注意をされたり、誤りを指摘されたりすると、もう会おうとはせず、友だちにはならないことが多いのではないか。そして、当たり障りのない、互いに相手を利用できる範囲でのみ、付き合い交わるということになる。
 
 しかし、本来「出会い」とは、その出会いを通して、今までの自分の歩みや、生き方を根本的に問い直され、新しい歩みへと変えられることではないか。いわば「出会い」を通して今までの歩みにストップをかけられ、方向転換(回心)をさせられるような経験をすることが大事なのである。
 
 ザアカイはイエスと出会って同じ経験をした。それまでザアカイを支えていたのはお金であり、徴税人の頭という地位だった。しかし、人の批判やつぶやきを聞き捨てて、あなたの家に泊まると言われたイエスに出会い、その愛に触れて、ザアカイは今まで人々に嫌われても、自分を支えてくれると信じて懸命にため込んできた財産を、貧しい人々のために惜し気もなく投げだす者へと変えられたのである。
 
 物の世界から愛の世界へ、孤独な自分だけの生き方から主の愛の中で人々と共に生きる生き方へと方向転換(回心)したのである。ザアカイは、自分の生命を罪ある者のために捧げようとして十字架の待つエルサレムに向かわれるイエスに出会って、新しい生を歩み出す者とされた。