「とりなしの祈り」 民数記14章11-19節

やっとのことで約束の地カナンの入口までたどり着いたイスラエルの民は、その地を偵察して帰って来た人たちの暗い知らせを聞いた。皆声を上げて叫び、その夜を泣き明かした。カナンの地はとてもじゃないが、我々の侵入する余地などどこにもない、という事実の前に立った時、彼らはただ絶望するよりほか仕方がなかった。それでもなお、そこは神が約束された地であるから、恐れず突き進もうという提案をしたヨシュアとカレブという若者がいた。しかし、イスラエルの民たちは彼らを石で打ち殺そうとした。それほど危険な思想はないと思えたからである。

 それを知った神の怒りは、頂点に達する。民の神への侮りのゆえに、モーセに「イスラエルの民を捨て、モーセを彼らよりも強大な国民としよう」(12節)と提案する。アブラハムとの契約を捨て、モーセを契約の礎にするというもの。この神からの提案は、モーセにとって決して悪いものではなかったはず。しかし、モーセはイスラエルの民のとりなし手として神の怒りの前に立ちはだかる。

 モーセは、「どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪を赦してください。」(19節)と祈った。この祈りこそ、今も御霊が言い難き嘆きをもって、私たちのために捧げている祈りである。パウロは、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)と書いている。このようなモーセのとりなしの祈りに神は、イスラエルの民を慈しむ者であることを認め、約束を思い起こされ、彼らの不信を赦されたのだった。

 ある牧師が祈りについて次のように書いている。病気になった者は医師のところに行く。診察を受け、検査をしてもらい、薬を処方してもらう。そのように医学的な処置を受けるのは当然のことであろう。しかし、信じる者にとってはそれだけではない。祈ることをも必要とする。自分が祈るだけではない。祈ってもらうのである。つまり病んでいる者は、自分のために祈って欲しいと要求する権利があると言うのである。権利などと言うと、少し厚かましい言い方になるかもしれない。しかし、この牧師が言いたいことは、病んでいる者は祈りを求めていいのだ、ということ。肉体の病の時だけではない。心が病んだ時にも、苦しみにある時にも、悲しみの中にある時にも、私のために祈ってくださいと求めてよいのである。いや、そういう時だけではない。喜んでいるときにも、しあわせだと思っている時にも、信仰の兄弟たちよ、私のために祈って欲しいと言ってよいのである。
 
 祈って欲しいと言えるのは、教会に生きる者の特権である。もちろん、自分のための祈りを求めるだけではない。自分のために祈ってほしいという願いは、自分も仲間のために祈り続けることとひとつである。表裏一体である。祈り合うのである。教会はそのようにして形作られる祈りの交わり、祈りの共同体である。その意味では、私一人でする祈りが孤独であるということはない。自分のためだけに祈るような祈りもない。初めから他者を思い起こさないわけにはいかない。そこでは、初めにまず自分のために祈り、心に余裕があったら他者のために祈るということでもない。自分のために祈ることと、他者のために祈ることと簡単に分けることは出来ない。自分が他者の祈りの中に包み込まれるように、自分もまた他者を包み込むような祈りに生きるのである。ここに祈る者の知るさいわいがある。とりなしの祈りに生きよう。