「復活の信仰」 コリントの信徒への手紙一15章12~19節

聖書は主イエスの復活が記され、私たちはそれを信じている。にもかかわらず、現実はどうかと言うと喜びに満たされない、なぜか心が躍らない。どうしてなのだろうか。これに答えるものが、この15章なのである。
 
 問題は、主イエスと私たちの関係である。主イエスの復活はよそごとで、私と何の関係もないのではない。主イエスの復活は16節にもあるように、どこまでも私たちと関わりなしにありえなかったのだとパウロは告げている。

 さらに「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)と宣言している。キリストは眠っている者、つまり死の支配下にある者の初穂として復活されたのだと言う。初穂とは、麦の穂が出る前に、はじめに他のものより先んじてパッと出る穂である。ここにはっきりと主イエスの復活と私たちとの結びつきのあることを説いている。
 
 約束手形は何月何日にお金を支払うという証書である。主イエスの復活は、私たちに与えられた約束手形である。額はきちんと書いてあるが、今それはお金ではない。約束であり、原則的に物は買えない。主イエスが復活されたからといって、今の私の生死に関わってはこない。だから、私たちはまだ死の支配下にある。主イエスの復活を何回聞いても、私たちは死んでいく。信ずる者も、信じない者も、何の差もない。

 信仰生活で多くの人がつまずくのはこの点ではなかろうか。教会へ来たら病気はせず、仕事はうまくいくか。否である。信仰があろうがなかろうが、失敗する時は失敗し、病気になる時は病気になるのである。同じなら、教会へ行く必要はないと知恵を働かせ、去っていく人もいるのである。19節に「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば」とはこのことなのである。
 
 キリスト教の希望とは、そんな安っぽいものではない。キリストは死に勝利したのである。死、その前にはどんなものも無力である。その死から解放されたのが主イエスの復活であり、私たちの希望なのである。だから、それは喜びである。もっとも、今はまだ、信じていない者と同じく、見えるところは不鮮明かもしれない。しかし、主イエスが、それを約束してくださったのである。

 復活は、今だけ見ているのでは駄目である。復活を信じても信じなくとも、死んでいく者は死んでいくのである。しかし、約束手形にははっきり期日が書かれているように、私たちの初穂のキリストの復活には日付が記されてある。それは終末の時、イエスが再臨される時である。その日には、キリストに属する者はこの復活の生命に与かることができるのである。
 
 コリントの教会の人も迷ったように、今の私たちも、キリストの十字架と復活を聞きつつも、すぐには喜べず、すぐには望みをいただけない。約束ではなしに、今実現するように受け取ってしまうからである。ヘブライ人への手紙10:35-36に「自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」と記されているように、私たちに必要なのは、主イエスの復活が私たちのためだったという約束を信じて生き抜くことである。英国のバプテストの聖書学者であるバークレーは、「復活の信仰は、イースターの時期だけではない。クリスチャンがそれにより毎日生き、それにより最後に死ぬ信仰なのだ」と言っている。復活の希望に忍耐をもって生き抜くことなのである。