「主の栄光のために」 ヨハネによる福音書2章1~11節

当時、婚礼は家と家との祝宴であり、大勢の人を招いて数日から一週間にわたって行われたようである。招かれた人々はふんだんに肉やぶどう酒を振舞われ、祝宴を楽しんだことだろう。その婚礼の席でぶどう酒がなくなるとは、花婿の家にとっては一大事で、恥とされることであった。
 
 この非常事態に気づいた母マリアは、息子イエスに助けを求めた。イエスに対する願い、嘆願、あるいは祈りと言ってもいいかもしれない。切実な祈りです。しかしイエスの答えは、実に冷たい、つれない言葉だった。しかしこれは、母と子の肉親の情、あるいは私たち人間の肉の欲によってキリストが応えられるということはないということを言われたのではないか。確かに、主イエスは私たち人間の必要、欲望を満たすために来られたのではない(ヨハネ3:16-17参照)。私たちの必要が思いの中心にあるとき、「私の時はまだ来ていない」という答えは、厳しい拒絶のように聞こるが、それは、私たちの「欲」に対する拒絶だとも考えられる。

 一方、「わたしの時はまだ来ていません」とは、イエス・キリストの時があるということを含んでいる。母マリアが願う時ではなくて、あるいは私たちが願う時ではなくて、イエス・キリストの時があるのである。だから母マリアは拒絶されたとは思わない。母マリアは備えた。イエスの言葉に「とどまった」。だから、母マリアは、「召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』」(5節)と教える。これは、母マリアがイエス・キリストの時を信じて待つ姿勢である。その時を信じるから、彼女は備えて待つのである。ここには、親子の関係を超えて、「不測の事態にあっても、主に信頼して従う」信仰の姿勢がみられる。

 祈る人というのは待っている人のこと。祈った人は前に向かう。前方を見る。そして備える。信じる者は神に向かって祈る。自分自身を神に向けて投げかける。いろいろな問題を抱えた自分、あるいは行き詰っている自分を、神に投げかけながら生きる。それが神を信じる者の生き方である。
 
 私たちの生きている現実の前にも壁がある。壁はこちらから破ることはできない。こちらから何とかして破ろうとしたら、こちらが傷ついてしまう。向こうから破っていただくのである。向こう側から、救い主の方から破っていただいて前に進む。イエス・キリストは言われた。「求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる」。求めるというのは、ただ欲しいと思うことではない。祈ることです。そして私たちは神の門をたたく。門は向こう側から開いていただける。向こう側から、私たちには開けないと思った扉を、一つ一つ開いていただきながら、私たちは前に向かって歩いていく。それが信仰によって生きるということである。