軍隊と靖国の本質

る機関誌8月号にHさん(Y教会員)が「神の義に生かされて」と題してメッセージを書かれている。彼女の父親は、陸軍士官学校出身の職業軍人。敗戦の時、29歳で少佐。そのお父様は、「戦争の勝利をひたすら願い、そこにすべてをかけて加担し、それこそが義と信じていましたが、敗戦後は苦悩を抱え込みました。ようやく見出した救いも、『自分だけが救われてよいのか』と、ためらいを生じさせましたが、罪を認めて委ねた後は、主の光の中を歩ませていただきました」、とある。87歳の時である。敗戦後、生涯をかけてといえるほど長く苦悩を抱え続けて来られたわけです。

  そのような父親を背中に見ながら成長した彼女が学ばれたことが書かれている。「軍隊では人間らしく生きることは求められません。一人の人間を尊び、大切にするという視点のない、その人らしく精いっぱい生き抜くことを許さないものでした。上官の命令の下、兵器の部品、爆弾の一部、そのように自らを考えて死んでいった若者が大勢います。それなのに死後は神として祀られると教えられ、ひたすら戦争に貢献することが求められました」、とあります。ここに「靖国神社」という宗教のからくり、役割が浮き彫りにされています。

  さらに次のように書かれています。日本軍においては「暴力は日常茶飯事など、自国の兵への扱いも、人としての扱いではありませんでした。大切な命、人としての尊厳を見る視点のない軍の性格……それなのに国家のために死んだら神として祀るという、それは生きている時も、死んでからも『人間でなくなる』『人間としない』ということです。大切にするということではありません」。

  神ならざるものを神とする罪。そこに権力者に利用される宗教とそこにからめとられる民の哀れな扱い。権力者は野望のためなら何でも利用する。そこを見抜く力が求められる。靖国の闇は深い。