「天にまします我らの父よ」マタイによる福音書6章9~13節

主の祈りで、「天にまします我らの父よ」と祈っているうちに、私たちは神の「子とされたのだ」ということを自覚させられる。そして、この神の子となるとは、私一人のことではなく、父なる神の前に、多くの兄弟や姉妹と一緒に祈りをしていることを実感する。それまで、自分にとっては他人にすぎない人であったにもかかわらず、主の祈りを祈ると、「あなたも私の家族」という新しい人間関係の中に生きていることが起こってくるのである。だから、キリスト教会では、「○○兄弟」「○○姉妹」と呼び合う習慣がある。つまりこれは、「父よ」と祈る中で、もう神の家族というコンセプト(概念、考え方)の中で生きていることを現している。

 そして、この主の祈りを祈っている人は、自分の身近に要る人だけではない。世界中の人が、今日も主の祈りを祈っているのである。その時、自分には新しい家族が世界中にできる。日本だけでなく、あらゆる国境、言語、肌の色を越えて、貧しい人も、富んでいる人も、病んでいる人も、健康な人も区別なく、神の家族となるのである。

 「父よ」と祈り、父なる神の「子とされる」ということは、この新しい神の家族との新しい時間を過ごすことでもある。家族は同じ時間を過ごし、共に食卓を囲む。キリスト教会での礼拝で過ごす時間が何よりも家族の時間である。父なる神の言葉である聖書のみ言葉を聞き、主の晩餐というパンとぶどう酒を分け合うことで、新しくできた家庭の食卓を共にするのである。

 さてもう一つ、主の祈りを祈り始めると、すぐに気がつくことがある。それはこの祈りの主語は「我ら」と複数形だということ。つまり、主の祈りが教えてくれることは、キリスト教の祈りとは、「共に祈る祈り」だということ。主の祈りは、私たちの祈りが個人一人ひとりの祈りに終始することなく、複数形で、多くの人たちとの祈りの交わりの中へと連れて行くのである。

 主の祈りが私たちに語りかけるのは、祈りもまた自分だけのものではなく、自分のために誰かに祈ってもらい、自分もまた誰かのために祈ることが大切だということである。主の祈りはこのように、「我ら」を意識して祈る祈りである。あの天の父を父として祈る時に、私たちは自分の祈りの中に、自分の家族のことが思い浮かんでくる。教会の中で悩みを抱えている人のことが思い浮かんでくる。貧しくご飯を食べられない人のことも考えるし、災害によって住む場所を失った人たちのことも、その祈りの中に入ってくるのである。

 キリスト教の祈りというのは、個人プレーではなくチームプレー。それが分かった時、私たちは自分のためだけに祈ることをやめ、この小さな祈りもまた、今、祈ることの出来ない悲しみに沈んでいる誰かの、困難な状況におかれている誰かの役に立つのかもしれないと、人のために祈る祈りの奉仕者となっていくのである。そうするとき、自分もまた誰かに祈ってもらってきたことが、わかってくるようになる。自分が祈れない時も、誰かがきっと自分のために祈っていてくれたことに気づくのである。

 祈りは共同体の祈り。チームプレーの祈り。祈りは他者、隣人のためのとりなしの祈りであり、また自分も祈られている祈りなのである。「天にまします我らの父よ」と呼びかけるとき、父は私の父であり、あなたの父であり、まだあったことのないすべての人の父でもある。だから、他者のために祈り、他者のために仕えるのである。隣人を愛しなさい、につながっていく。