「安心して行きなさい」 マルコによる福音書5章25-34節

「あなたの信仰があなたを救った」(34節)とあるが、彼女の信仰が彼女自身を救ったのか。自分で救えるなら、神など必要ない。では、本当の意味でこの女性を癒し、救ったのは一体、何だったのか。み言葉に即して理解すれば、女性自身の力ではなく、「主イエスご自身の中に働いている癒しの力」ではなかったか。30節に「イエスは、自分の内から力が出ていったことに気づいて」とある。主イエスには、癒す力が働いていた。

 とすると「あなたの信仰」とは何か。この「信仰」と訳されているギリシャ語はピスティスで、「信頼」とも訳すことができる。すると「あなたの信頼」と訳せるが、彼女は誰に信頼したか。主イエスである。そうするとこの女性の主イエスに対する信頼を主イエスご自身が感じとって、愛をもって答えて下さることによって、救って下さった、ということになるだろう。

 この女性の主イエスに対する信頼は大変なものだったということが、今日の聖書箇所からうかがい知ることができる。この女性は、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」(27節)と記されている。この行為は彼女にとって命がけの一大決心だった。そこに彼女の主イエスに対する信頼が表現されている。しかしなぜ、彼女はそうしたのか。それは、「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思ったからである」(28節)。学者はここに古代人の迷信を持ち出す。しかしそのようなことは今も変わらずある。また迷信だとか通俗的だとか言って軽蔑されるべきものか。

 神学者の田川健三氏が次のように書いている。「病気の者が奇跡にすがってでも治癒を求め、飢えた者が必死に食を求めるのは、直接自分に役に立つことだけを求めるエゴイズムなどということとはおよそ見当が違う。人間の生きるための最も根源的な行為である。そこのところを軽蔑できるような姿勢が、愛であるはずがない」(『宗教とは何か』222p)と言い切っている。

 ここで重大なことは、いずれにせよ、この女性が、あらゆる「迷い」や「ためらい」を越え、あるいは「妨害」を越えて、「キリストの服に触れ」たいという思いである。私たちはこの時、この女性がどれだけ大きな障害、妨害、ためらい、苦しみを乗り越えたかということを知らなくてはならないと思う。彼女は12年間長血を患っていた。それは旧約聖書のレビ記15章25節にあるように、長血は「汚れたもの」と言われ、その触るものもみな「汚れる」と書かれている。ゆえに、彼女は生活共同体から遠ざけられ、宗教的にも排除され差別を受けていた。さらに「医者にかかって、…全財産を使い果たしてしまった」とある。医療的にも経済的にも追い詰められていた。社会的にも、医療的にも、経済的にも、更に宗教的にも苦しめられ、どこにも救いはなかった。二重、三重どころか四重の苦しみである。彼女はどこへ行けばいいのだろうか。彼女にとってどこに救いはあるのだろうか。

 評論家、若松英輔氏が言うには、「なぜ宗教を問い直すのか」という問いの背景には、私たちが知性と理性の網からこぼれ落ちる宗教との関係を見失ったという現実があるという。人間を超えたものとの関係を見失ったというのである。

 これは、言い換えれば、私たちが知性と理性の網からこぼれ落ちたもの、あるいはこぼれ落ちた状況になった時、そこに救いを指し示すのが宗教という存在ではないかということ。この女性、医学的にも経済的にも宗教的にも社会的にもそれらのすべての網からこぼれ落ちていた。あとは主イエスしかいない、という思いになったとしても不思議ではない。その主イエスに対する信頼は並々ならぬものがあったと容易に想像がつく。28節「この方の服にでも…癒していただける」と思ったからである。この主イエスに対する信頼。

 イエスの服に触れる、というのは先の若松氏の言葉を借りて言えば、「人間を超えたものとの関係」を彼女は何としても持ちたいと願ったゆえの行為だったと思う。それを若松氏は、「人間を超えたものや他者との有機的なつながりのなかに自らの生きる意味を見出していくこと、それは……人間がおのずから希求する根本感情、だと」とも言っている。まさに彼女の思いや願い、その行為はまさにそのことだったのである。なにも彼女だけの特別なことではないだろう。我々誰しも当てはまることなのである。

 このような主イエスに対する信頼をもって歩みたいと思う。そして、そのような信頼に必ず応えてくださる主イエスであるということを忘れないで。今日も主イエスは私たちに「安心して行きなさい」と呼びかけておられる。