傷があってもいい

 人間にとって最も精神的につらいことの一つは、人から批判されたり、そしられたりして心が傷つくことではないかと思う。人によっては、その傷がなかなか癒えないため、その後の人間関係に様々な問題が出てくる場合がある。それはちょうど怪我をして、その打ち所が悪く、傷の回復が長引いて日常生活に何かと支障が出てくるのと似ている。

 しかし、傷つけられ心に痛みを覚えるということは、確かにつらいことではあるが、必ずしもすべてがマイナスばかりではなく、視点を変えれば、プラスとも必要とも考えられる面もあるのではないだろうか。

 たとえば、足にとげが刺さって「痛い」と感じたら、すぐにその傷の手当てができ、次からはとげを踏まないよう気をつけるというように身体にとって安全装置となるように、人から傷つけられて心が痛むという感覚も一種の心の安全装置と言えよう。もし痛みを感じる心がなければ、人が何で傷つくか分からない。それは人間関係においては危険なことである。そういう意味から考えると、痛みの感覚というのは人間生活にとって必要なものであると言えるだろう。

 もう一つ、人は自ら痛むという経験がないと、対人行動が奇妙で不可思議なものになってしまう可能性がある。ソロモンは『箴言』の中で、「心の痛める人の前で歌をうたうのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、また傷の上に酢を注ぐようだ」(口語訳:25:20)と言って、人の心の痛みに対する無感覚を戒めている。そういう視点から痛みの問題を考えると、心が傷つくということは、ある意味において精神の健全性のしるしでもあるだろう。

 痛みの感覚を持つ者は、他人の痛みの現実をよく知り、その苦痛に共感できるようにされていくことが大切。性急な指導や助言ではなく、寄り添っていく中で信頼関係を作り、共に癒されていく関係作りが求められるだろう。そこから、共に祈り、共にみ言葉に聞いていくことが可能になっていく。

*『〈新版〉こころの散歩道』(堀 肇著、いのちのことば社、2008年)36-41p参照。