生まれつき目の見えない人が、人通りのある所に座っていた。そこで弟子たちはイエスに質問した。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。弟子たちはおそらく、この生まれつき目の不自由な人を見た時に、反射的にイエスにこの質問をしたのだと思う。というのは、こういう場面に出くわすと、だれでもが考えることだからである。いったいどうして、誰のせいでこんなことになったのか。本人が悪いのか、両親の罪か、あるいは先祖の誰かが悪かったのか。
イエスはこの弟子たちの質問にこう答える。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。本人の罪か、両親の罪か、だれが悪いのか、そんなことは関係ないと、イエスは言われたのである。誰のせいでもない。そんなことはいくら考えても答えはない、とでも解釈できる。因果応報の考えを真っ向から否定する。イエスはここでハッキリ言われる。「神の業がこの人に現れるためである」。神を知らない時に、人はみな問う。どうしてこうなったのか。誰のせいでこうなったのか。しかし、神を信じた時に見方は変わるのである。目の前にあるこの現実は結論ではない。結果としてこうなったというのでもない。ここから神が御業を行ってくださるのだ。この厳しい現実こそ、神の御業が現れる始まりなんだ、とイエスは言われるのである。
この出来事の最初、「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」(1節)と書いてある。イエスが来たということ、そして生まれつき目の見えない人に目を留められたということ、ここに聖書のメッセージがある。救い主がこの世界に来られたということ、そして救い主が人間の現実に目を留められたということ、それが大切なメッセージである。人間の苦しんでいる、悲しんでいる現実に目を留められた。もし神の子である救い主が、目を留められたのであるならば、どんな現実にも希望がある。
さらに、4節にこう書いてある。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことができない夜が来る」。日のあるうち、つまり光のある間、植物も動物も光の照っている中で生きる。光の中で癒される。光の中で成長し、そして実を実らせる。私たちはその昼の中にいる。救い主イエス・キリストのおられる昼の中に私たちがいる、ということなのである。私たちはこの命の光を浴びている存在。神の愛の中にいる存在。神に愛され、支えられ、導かれて生きているのだ。だから、私たちは問わない。なぜこうなったのかなんて問わない。だれのせいで、だれの責任かなどとは問わない。そんなことを問うても何にもならない。そう問うことで先が見えなくなってしまう。しかし、もうそんなふうに問わなくてもいいのである。そういう時が今来ているんだ、ということを聖書は私たちに告げているのである。
救い主が御業を行ってくださるのである。イエス・キリストが来てくださって、ただそこにおられるというのではない。来てくださったということは、御業を行ってくださっているという意味なのである。だから私たちのこの現実は、結果ではない。救い主の業の始まる場所なのである。神のみ手が働いている現実なのである。だから私たちは待つ。待ち望む。私たちは将来を待ち望む。ここから神がどういう現実を生み出してくださるのかを私たちは待ち望む。この現実を突き抜けて、主の御業の行方を私たちは待ち望む。ここに主にある希望がある。
そして、この創造の業に、私たちも参与させていただくのである。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」のである。ものをつくり出す業に、人を癒す業に、人を生かす働きに、私たちも用いていただくのである。この命がそのために用いられる。「神の業がこの人に現れるためである」ということはそういうことでもあるのではないか。こんな私でも神の創造の働きに参与するように召されている。そのことの中に人間の命の喜びがある。生きる喜びがある。生かされている、生かされて生きている。この命を用いて主の業に励みたい。