「主よ、助けてください」。ペテロが叫ぶと、主イエスは助けてくださった。その時、あの恐るべき言葉を主イエスはペテロに語られた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。それは、私たち誰もが人から言われたくない言葉でありながら、私たちの多くが同じ言葉を毎日のように自分自身に投げかけている言葉でもある。なぜ、私にはもっと信仰がないのか。なぜ、すべてを神にゆだねることができないのか。なぜ、疑うのか。この私が神のみ手の中にあると信じ、そのみ手がよき手であることを信じている。それなのに、失業したり、だまされたり、事故にあったり、様々な試練や困難に出会うと、私の信仰も一緒に失せ果てて、私は沈み始める。
私たちは、神が共にいて下さること、この世界で生きて働いておられることを信じている。それでも、私たちの社会ではひどい事件が次から次と起こる。新聞の見出しやテレビのニュースなど、そのどれを読んでも聞いても、嵐はいつまでも静まらないように思える。波は私の足に絡みつき、沈み始めていくのだ。
なぜ私たちは疑うのだろう。怖いからだ。海はあまりにも広大であり、私たちはあまりにも小さいから、嵐はあまりにも凄まじく、私たちはあまりにも簡単に沈んでしまうから、人生はあまりにも私たちの手に負えず、私たちはその中であまりにも無力であるからだ。なぜ私たちは疑うのだろうか。それは怖いからだ。私たちに信仰があるときでさえも。そう、私たちには信仰がある。まったく信仰がないわけではなく、いくらかの信仰ならあるのだ。ペテロと同じように、私たちにもいくらかの信仰があり、それは全くないよりもずっと良いことだ。その信仰が、私たちを救うには十分ではないように思えることが、時にあるとしても。
ペテロのように、私たちは、信仰がありながら疑い、主イエスと共に歩こうとしながら失敗し、ほんのわずかだけ歩きながら沈む。そして、「主よ、助けてください!」と叫ぶのだ。私たちが叫ぶと、主は助けてくださる。そのみ手を差し伸べて下さると同時に、叱責の言葉をもって。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。それを聞いて、私たちのほとんどは自分が落第者だと決めつける。けれども、私はこうも思うのだ。もし、この物語が別の方向に向かっていったら、どうなるのだろうか。
もしも、ペテロが沈まなかったらどうなるのだろうか。もしも、ペテロが完全に信頼して、舟から飛び降り、波の向こうの主イエスに微笑みかけ、主のもとへ全く躊躇することなく滑るように行ったとしたなら、どうだったのだろう。もしも、他の弟子たちもペテロに続いて舟から次々と降りてきて、嵐が猛威を振るい風が帆を叩きのめし、頭上では闇夜に稲妻が炸裂する中を、全員が完全な信仰のうちに水の上で大はしゃぎしたとするなら、どうだったのだろう。
それでは、まったく別の物語になってしまっていたことだろう。確かに素晴らしい話かもしれないが、それは私たちの物語ではないだろう。私たちの真実の姿はもっと複雑なのだ。私たちの真実の姿は、従い、そして恐れ、歩き、そして沈み、信じ、そして疑うのだ。本当に複雑だ。どれが本当の自分か本人でもわからない。そのどちらか一方というのではなく、両方してしまうから。私たちの信仰と私たちの疑い、その二つは併存しないものではない。その二つは私たちの中に同時に存在して、私たちを支え、引き降ろし、私たちを勇気づけ、恐れさせ、人生の荒海を歩く私たちを下から支え、石のごとく沈める。どちらも本当の私なのだ。
だから、私たちには主イエスが必要なのだ。だから、私たちは、主イエスがおられないのであれば、水の上になど決していたくないのだ。恐怖と疑いは、私たちを縮み込ませるが、それは同時に、主の救いのみ手を求める叫びを私たちに促してくれるものでもある。それならばどうして、恐怖や疑いは悪いものでしかない、と言えるだろうか。もしも、私たちが決して沈まなかったなら――もしも水の上を自分の力でわけなく歩いていけたなら――救い主を求める必要はなかっただろう。私たちは、独立独歩で生きていけただろう。疑いは、私たちに恐れをもたらすものだが、いったい自分が誰なのか、自分はだれのものなのか、そして、私たちの人生において私たちが救い出されるために、いったい私たちはだれを必要としているのかを、私たちに思い起こさせてくれる。ペテロのように、そして、私たちの誰もがそうであるように、私たちが沈んでいくとき、私たちの主はみ手を伸ばして私たちを捕まえ、まず恵みをもって、それから裁きをもって応えてくださる――「なぜ疑ったのか」――。しかし、それは決して拒絶ではない。主は私たちを舟に戻してくださる。主は、すっかりご存知なのだ。私たちがそもそも舟に乗っているのは、信じているからだということを。信じたいと願っているからだということを。そして、疑いに満ちた日々の中にあっても、主に従うつもりでいるからなのだ、ということを。
主は私たちを舟に戻してくださる。私たちの仲間たちが、襟首を捕まえて舟に引き上げてくれる。感謝にあふれると同時にへとへとになった私たちは、滑りやすいデッキの上に倒れ込む。たちまち風は止み、波は静まり、夜が明けようとする畏怖すべき静寂の中で、この舟に乗っている私たち皆が、ともに主イエスを礼拝し、言うのだ。「本当に、あなたは神の子です」。疑いのあるところに救いはある。