「キリストによる和解」 エフェソの信徒への手紙2章11-22節

ここでパウロはエフェソの人々に向かって、かつてキリストを知らなかった時、神の民に属さず、歴史の支配者である神の約束とも関係なく、この世での希望を持たず、神の慰めや平安、約束、希望などと遠く離れて生きていた「異邦人」であったと言う。ここでいう「異邦人」とは、ユダヤ人以外の人を指し、「割礼のない者」「律法を持たない者」とも呼ばれ、ユダヤ人からは救いとは無縁な者とみなされていた。

ここには、ユダヤ人から見た差別と偏見、その裏返しの彼らの選民意識と特権意識が背景にある。彼らユダヤ人は神から選ばれた民、神の救いを約束された民であるという意識だ。それが彼らに自分たち以外の民族を異邦人とみなして、差別、偏見を生み出していった。それは、民族間だけでなく、ユダヤ人同士の中にも「隔ての壁」をいくつも作っていくことになった。それは、神殿の作りからも見て取れる。その壁を打ち破ったのがイエス・キリストであった。どのようにしてか。それは「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって」(13節)である。「血によって」、「肉において」(14節)、「十字架」(16節)の出来事によってである。
 
そのように神から遠かった異邦人(私たち)が、今や、キリストの十字架の出来事によって、神に近い者、神を知り、神と共にある者、キリストによって生きる者、希望を持って生きる者とされたと、言うのである。この十字架の出来事、救いの恵みは、今はすべての人々に開かれている。すべての人々を主は今招かれているということである。

 そのことを以下、具体的にパウロは述べていく。「実に、キリストは私たちの平和であります」(14節)という意味が、「二つのものを一つにし」「隔ての壁を取り壊し」「律法を廃棄した」という三つの文章で示されていく。

「一つ」とは一致とも訳されるが、それは画一化ではなく、むしろ和解の意味である。「二つのもの」とはここではユダヤ人と異邦人との二つのグループをさしている。「二つのものを一つにし」、そこに主イエスの言葉が響く。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10:16)という主の言葉である。主イエスの言われる神の国、救いとはそういうものなのだということである。

 次に「隔ての壁」とは、ここでは異邦人をユダヤ人から隔離し、差別していたエルサレムの神殿の壁のことである。当然その壁は双方の敵意の象徴であった。この他にも女性をさえぎり閉め出す壁、祭司以外の人を入れない壁などがあった。このように人々を「規則と戒律ずくめ」(15節)にして、がんじがらめにして、差別を助長し、救いを独占し自己絶対化するような律法を、キリストはご自身の生き方を通して廃棄された。

さらに、パウロは、この人々の和解と平和と一致について、キリストによって新たに造られた教会を通して具体的に語っていく。キリストによって新たに造られた教会。そこにおける人々の和解と平和と一致という交わりが、国籍、家族、建物という三つのたとえで語られている。しかしそれらの言葉はまったく新しい意味で用いられている。家族や国籍という言葉は偏狭な民族主義や血縁的なものにつながりやすいものだが、そのような「血」を乗り越える意味もこめられて、13節でキリストの血が強調され、その血によって新たに造られる共同体としての家族や国籍という言葉が使われている。「神の家族」という言葉は、主イエスの言われた言葉を思い出させる。「神の御心を行う者はだれでも、私の兄弟、また姉妹、また母なのです」(マルコ3:35)。主イエスの言われる神の国、救いとはそういうものなのである。

 またよく体にたとえられる教会は、ここでは建物、聖なる神殿、神の住まいにたとえられている。当時の建築方法では、隅に「かしら石」を置き、次に礎石、その上に段々に石を組み合わせて積み重ねていき、最後に、最上部に建築完成の決め手とも言うべき「要石」をはめ込んだ。「かなめ石」(20節)とは、最も基礎になる「隅のかしら石」(口語訳)と最後の「要石」(新共同訳)の二説があるが、そのどちらでも、また両方とも指すと考えても意味深いものがある。つまり、教会の基礎としてのキリストと、教会の完成者としてのキリスト。そのキリストにおいて多様な人々が組み合わされていくところに、教会の豊かさや健全さがあり、その時、教会は成長していくというのである。この「成長し」という概念は教会が常に途上にあることを示していて、同じ主を共通の礎とし、仰ぎ見て歩むところに一致があることを私たちに教えている。

 私たちは神との和解を受け、キリストによって一つとされた神の家族。そのことはすべての人々に開かれており、隔てはない。神の家族の教会に、すべての人々を主イエスは招かれている。この神の家族である教会につながり、「実に、キリストは私たちの平和である」といわれるキリストにつながって歩みたいと願うものである。