「シャローム」 マタイによる福音書5章1-12節

 平和とは、単に戦争がないという状態を指すのではない。平和とは、社会的にも、人間精神においても、満たされた安らかな状態が維持されることを意味する。しかし、現実的に考えた場合、このような平和を人間の力によって実現することは大変難しい。なぜなら、聖書が繰り返し述べているように、人間が原罪を負っているからだ。罪から悪が生まれる。その悪には、人間の精神を錯乱させること、社会に騒擾をもたらすこと、戦争を行うことなどが含まれている。とにかく、この世界の平和は人間が引き起こす悪事で簡単に壊されてしまうのである。それだからこそ、聖書が私たちに伝える福音は、平和を実現するために、神のひとり子で、罪を持たないイエス・キリストが十字架の上で死ぬ必要があった。そして、このイエスの犠牲としての死があったおかげで、人間は平和を享受できるようになった、ということである。

 そして、最も真の平和は、イエスが再臨し、最後の審判を行った後に実現する、と聖書は記す。このような終末論的平和観がキリスト教の基本である。だから、私たちは、終末、来るべき将来の希望、平和から、現在の希望、平和を考えることになる。具体的にいうならば、今日、私たちに与えられた聖書のみ言葉をどのように受け取っていくかということになるだろう。

 イエスの話されたたとえに「よきサマリア人のたとえ」がある(ルカ福音書10章)。この「よきサマリア人のたとえ」のテーマは「隣人となる」ということである。このたとえから、私たちの問われているのは「私たちの隣人性」である。多くの争い、戦争は隣人性の欠如からきているといってもいい。

 戦争への道は憎しみと恐怖心をかき立て、隣人性を奪い取っていく。安倍政権は、隣国北朝鮮が核兵器開発やミサイルを発射したりしていることをもって、必要以上に北朝鮮を仮想敵国とみなし、国民に恐怖と憎悪を掻き立てることに躍起である。これでは、拉致問題や国交回復は残念ながら進展するはずもない。アメリカのトランプ大統領もそれ以上に北朝鮮に対して挑発的に敵対心を露骨にぶつけていた。ところが、歴史的な米朝首脳会談が行われた。この首脳会談によって、確かに今までのところ、世界が注目し期待したような北朝鮮の核兵器廃絶は進んではいない。いないが、少なくとも仲良くしようと握手したのだ。だから、以前のような両国指導者による敵対心むき出しの応酬はなくなった。高官レベルの交渉、対話が進められている。そうなると互いの忍耐と努力、妥協が必要だが、この道こそが「隣人となる」努力であり、聖書の教える平和への道ではないだろうか。

 ヘブライ語でシャローム」という言葉がある。旧約聖書の時代、今から何千年も前から、この言葉はイスラエルの人々の挨拶の言葉として使われてきた。今も使われている。「シャローム」、それは「平和」という意味。イスラエルの国では長い間、戦争に巻き込まれたり、争いを繰り返したりしてきた。たくさんの人々が殺されたり、傷ついたりして、大きな悲しみを何度も経験した。大切な家を焼かれたり、大事に育てていた牛や羊なども奪われたりした。人々は「こんにちは」「さようなら」の代わりに「シャローム」と挨拶し合った。「平和がきますように」と心からの願いを込めて挨拶をした。
長い間、平和を待ち続けていた人々は、次第に「神さまは私たちに必ず強く正しい王様を与えて下さるはずだ。そしてその王様が平和な国を作ってくれるのだ」と思うようになった。そこに現れたのが主イエスだった。

 主イエスは、神の教えをやさしく正しく人々に伝えた。病人や苦しんでいる人々に手を差し伸べた。主イエスはいつも困っている人々と神のことを一番大切に考えた。決していばることはない。主イエスは「平和を作りだす人々はさいわいである」と人々に教えられた。ところが、人々はその平和とは、敵の軍隊に勝って、手に入れるものと思っていた。今日に至るまで人々はずっと「平和のために」と言いながら戦争をしてきた。しかしそれでは、何千年たっても本物の平和を手に入れることができない。
 
 主イエスは、平和を作りだすのに強い軍隊も武器も必要ないと言っておられる。必要なのは、まず私たちの心を神さまに向けることだ、と言われている。すると必ず心が平和で穏やかな気持ちになる。キチンと神さまのほうを向いていれば、他人をむやみにねたんだり、いばったり、欲ばったりする気持ちにはならない。そんな気持ちの人々の集まった世界には戦いは起こらない。

 心が神のほうを向いていれば本当のシャロームがやって来るということを、今も主イエスは私たちに根気強く語り続けておられる。
「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」。

 私たちはしっかりと神に向き合って、世界の平和のために祈り、隣人と向き合い平和を作り出していこう。