「将来から現在を見る」 ローマの信徒への手紙8章18-25節

 今日の聖書個所は、「将来の栄光」、すなわち神の約束によって将来、被造物には救いがもたらされる、ということが示されている。ここでのパウロの視点は、現在と将来について考えた時に、救いの完成、被造物が救われる、贖われる将来を確信し、その将来から、現在を逆に見ている。

 普通我々は、現在から過去や将来を見る。しかし、パウロは、現在を将来の視点から見ている。こういうまなざしの転換、ものの見方の転換がここでは非常に生き生きと述べられている。被造物は今ここでうめき、産みの苦しみを味わっている。しかし、被造物だけでなく、「霊」の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいるのである。将来から見て、希望によって救われる、と語っている。それは見えないが、ここに信仰がある。

 このように信仰は、現在から将来を見るのではなく、救われるという確信の将来から現在を見るということだ。現在から暗中模索して将来を問い尋ねるのではなくて、将来から現在を見る。これは因果応報論の反対である。因果応報の考えというものは、「人の善悪の行いに応じて、その報いが、必ずあるということ」。「過去にこういうことがあったから、自分はこうなった」「こういうことをしたら、きっと将来こうなってしまう」と、どうしても人間は因果応報論に落ち入りやすい。あるいは、自分はこんなに良いことをしたから、将来きっと報われるだろうと日常的に考える。クリスチャンにもそれはあると思う。こういうキリスト教の修行をして、いい仕事をしたから、神様はきっといいものを下さるだろう。これも因果応報論の一つである。

 しかし、私たちの信仰は、現在から未来を見るのではなく、救われるという確信の将来から現在を見るということ。実は、キリスト教の強さは、このような価値観の転換、ものの見方の転換にある。いつの日か、キリスト教徒は、再臨したキリストの審判によって救われるという確信を持っていて、救われるという将来の現実から、現在を見ることによって、試練や苦難に、積極的な意味を見出すことができるからである。

 請求書の祈りから、領収書の祈りへという話がある。何のことかと言うと、かつてアサヒビールの会長さんだった樋口廣太郎さんが、ある本の中で書いていた話である。樋口さんはクリスチャンだが、神に祈る時に、「~してください」「~をください」というお願いの祈りを一度もしたことがないそうだ。聖書には、祈りは、祈った時に神によって必ずかなうと書かれている(ヨハネ一3章22節、5章14節参照)。樋口さんはその神の約束を確信し、ただ感謝の祈りをしたそうだ。いわゆる「請求書」の祈りではなく、「領収書」の祈りである。「お願い」の祈りではなく「感謝」の祈りである。

 樋口さんがアサヒビールに来た時、市場でのシェアは一ケタで、会社は潰れる寸前だった。そこで、取引銀行から再建のために送られてきたのが樋口さんだったのである。その時、彼がどう祈ったか。「神さま、どうか私をライオンにしてください。なぜなら、キリンを食い殺したいからです」とは祈らなかった。彼は次のように祈ったそうだ。「神さま、シェアが一番になりました。これで従業員もその家族も喜び、またそれを飲んでくれる人も喜んでくれます。ありがとうございました」と「領収書」の祈りをし続けたという。私なら「シェアを一番にしてください」と祈るところだが。

 なかなかできることではないが、信仰の根幹にかかわる真実を表わしている。領収書の祈りは、主イエスもされている。死んだラザロをよみがえらせた時の祈りである。主イエスは墓の前に立ち、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します」(ヨハネ福音書11章41節)。願い事が本当にかなう前に感謝している。

私たちの信仰生活は感謝する祈りが大切である。すでに恵みをいただいているのだから(恵みの先行)、まず感謝しよう。そうした祈りを重ねていくと、きっと違った景色が見えてくるはず。不安や悩みの中にあって喜びと希望がわいてくる。神の約束、神の希望に生きる者となろう。