「イエスは今も呼びかけておられる」 マルコによる福音書1章14ー20節

シモンとアンデレは漁師だった。ガリラヤ湖で魚をとって生計を立てていた。これを比喩として読むならば、ユダヤの民にとって、山は神の住む世界である。例えば、シナイ山でモーセは十戒を受け、タボル山でイエスは変容された。またイエスは山の上で教えを述べられた(山上の説教)。それに対して、海は世俗悪の世界を象徴している。例えば、レビヤタンという怪獣は海に住んでいる。それは基本的に、ユダヤ人が陸の民で、海の民ではなかったからだと言われている。この二人が漁師だったということは、世俗の世界に関わっていた人間のあり方を象徴している。つまり、私たちが毎日の生活で、お金儲けに忙しく働いたり、何かと心を煩わせている生活そのものを意味している。イエスが湖のほとりを歩いておられるとは、神自らが私たちの人間の世界に関わってくださることを意味している。だからこそ、神の国が私たちに近づいているのである。

 注意すべきは、人間が神の国の方に行くのではない。逆である。主イエスが人間の方に来てくださるのである。神の国の方が勝手に私たちの方に「近づいて」くるのである。極端に言えば、探し求める必要は何もない。ただ向こうから来ているものに気づくだけでよい。日本人の宗教観と大きく食い違う点がここかもしれない。日本人の宗教心の原点は求道心である。道を求める者がそれを見つけていくことを指す。発心して仏門に入るというのが普通である。座禅でもお稽古ごとでも、まず道を求めるものが門をたたいて、師匠に入門が許される。聖書の世界は逆である。まず、神が人間を求めている。神の国が向こうから近づいてくる。主イエスが私たちの方に歩いてくるのだ、生活のただ中に、そして突然に。ということは私たちの中に何の準備も用意もなく、ということだ。それは無条件で、神さまの方から来てくださることを意味する。

 主イエスは彼らに声をかけられる。主イエスがかけた言葉は「わたしについて来なさい」である。私も確かに同様の呼び声を聞いた。いつ、どこで、どのような状況の中で主の呼びかけを聞いたか、気づいたかは、人それぞれ違うだろう。多くの方からそのような体験の証しを聞くことがある。それはすべてユニークな体験である。祈りの最中、賛美しているとき、喜びの体験の中で、悲しくつらい最中に。実に様々な違う状況でその声を聞くのである。主イエスは今も呼びかけておられる。

 主イエスについていくとは、どういうことだろうか。人間をとる漁師になることだと主イエスは言われる。今までは魚という世俗のできことに関わる生活だった。そこから人間相手の仕事へ。愛に方向付けられた生き方へ。神の国の広がりを手伝う仕事へと向かっていくのだ。ただ世俗的な繁栄を求める生き方から、神の国の繁栄を求める生き方へ。方向転換。それには主イエスが人間に近づかれたように、私たちも人間に向かっていく生き方へとシフトしていくように呼ばれている。

 また彼らは、「網を捨てた」とある。網とは、それによって今まで生きてきた手段であり、方法。それなくしては生きることができなかったものである。時として、価値観であったり、考え方であったりするかもしれない。主に従うときには、もはや不要となるものである。これからは主御自身が彼らの「網」となってくださる。だから人間をとる漁師となるのである。それは主御自身の働きである。私たちはその主の働きに信頼して、従っていくだけである。