兄たちを探す


 創世記に記されている壮大なヨセフ物語の中で印象的な一言があります。それは「兄たちを探しているのです」というヨセフの言葉です(創世記37章16節)。

 「何を探しているのかね」と尋ねられて、「兄たちを」というのは印象的です。「自分探し」という言葉が流行語のようによく用いられますが、「兄たちを探す」という仕方でしか自分を探しあてることは難しいのではないかと思われます。それは「兄たち」を探す中で自分を相対化して見ることができるからです。

 では、あなたにとって「兄弟」とは誰でしょう。その問いは「あなたにとって隣人とは誰か」ということでもあります。他人に過ぎない人を兄弟姉妹として受け入れ、信頼し、共生していく、そのような人間関係の構築が伝道へとつながっていくのではないでしょうか。

 あの時、ヨセフは兄弟に嫌われ、銀20枚で売りとばされ、それでも兄弟といえるのかという劣悪な関係に堕ちていきます。しかしヨセフは「兄たちを探しているのです」といって求めつつ生きました。それは、後の兄弟たちとの再会の時でも変わりませんでした。

 兄弟姉妹と呼び難い者を兄弟姉妹としていくところに伝道の精神は息づきます。そうするのは、敵であるような私たちを「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」(ヘブライ2章11節)で迎えてくださるからに他なりません。

 日本の社会は、ますます同化、同調志向が強くなり、異質な者を排除していくような傾向にあります。自分と異質なものを受け容れ、共に生きていこうとする精神に欠けた社会の現実にあって「兄たちを探しているのです」という姿勢は困難を予想させますが、貴重な証しに通じていくはずです。

 兄弟姉妹として接し、相手から学びつつ心を開いていく時、自分たちは見えない愛の連鎖でつながれているのだという厳粛な時を経験させられ、自分自身をも再発見するのではないでしょうか。

 「いまどこかで泣いている/世界の中でわけもなく泣いている者/その人は/ぼくのことを泣いているのだ」(リルケ「厳粛な時」)。