アドベント、待降節。クリスマスの前、4週間を指す。アドベントとは、ラテン語のアド「~に向かって」、ベント「来るべきもの」から来ている。「来るべきもの」とは「救い主」キリストなので、「救い主に向かって」の日々、すなわち待降節と呼ばれる。「待つ」とは漫然と無為に時間を過ごすことではなく、キリスト・イエスに向かって「待つ」こと。
また「待つ」とは、先日の新聞に書いてあったが、自分ではどうにもならないこと、また自分以外のところでの事柄なので「待つ」ということが起こるのであり、だからこそ、祈りが生まれるのだとあった。なるほどと思わされた。ユダヤの人たちは預言者が預言した救い主を長い間待ち望んできた。祈り続けてきた。イエスのご降誕は、その祈り、待ち望んできた預言が成就された出来事であった。それは、自分たちでどうすることもできない、ただただ神のなさる出来事として実現したのである。そこにイエスの誕生の大きな意味がある。
神が私たち人間の世界に働きかけられたというのは、驚くべきことである。そのことは、ザカリヤの記事でも示されている。ザカリヤが香をたいているとき、御使いが現れた。私たちは神に仕え、神に献げ物をしたり、香をたいて神の喜ばれるようなことをするのが、宗教であると思いやすいのだが、ここでは神がザカリヤに御使いを送ってこられたのだ。神のために人間が何かしていくと思っていたのに、神の方から近づいてこられたのだ。聖書が私たちに訴えているメッセージとはそれである。そこに他の宗教とキリスト教の違いがある。どうして神を喜ばせていくかということではなくて、神が私たちの方へどのようにして近づかれ、何をされたかに目をとめていくのがキリスト教である。「成就された出来事」というのは、大事な言葉である。神がなしてくださった。そこにすでに著者であるルカのイエス・キリストに対する信仰の告白がなされている。
ヨハネの父ザカリヤとその母エリサベツは、「二人とも神のみ前に正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた」人であった。旧約の思想では、正しい人は神から祝福を受ける。例えば、子どもがたくさん生まれるとか、あるいは事業が繁栄するとかいうことを神の祝福のしるしと見ていた。ところが神の前に正しい行いをしていたザカリヤたちには子どもが授からなかった。それは理解できないことであった。
私たちはよく「どうして」と問う。神に対してもそれを言うことがある。「どうして、そんなことが、私にわかるでしょうか」(口語訳1:18)、マリアも「どうして、そのようなことがあり得ましょうか」(1:34)と言っている。それは神を自分の秤で計ろうとしているからだ。私が理解し、納得できたら信じようという生き方である。そこでは神ではなく自分が主人になっている。
私たちの信仰の基盤は、私のような者を神が心にかけて下さったということを知ることにある。エリサベトは「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました」(1:25)と言っている。マリアも「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」(1:48)と。私たちが神を信じるのは、自分の成長のため、また人生の問題で悩んだり、苦しんだりした時には、どうしても助けや慰めがいるからだ、と言う人がいるが、信仰とはそのようなものではない。苦しい時の神頼みではない。仮にそういうことが動機であっても、やがて、神はこの私を心に掛けて下さっていたことに気づくところから、ほんとうの信仰が始まる。41節「私の魂は