「宣教という愚かな手段」コリントの信徒への手紙一1章18-25節

十字架の言葉の愚かさ、それは下降するということである。神が下降するということは人間には不可解な、理解できないことである。神が罪人の下にまで下降するのであるから。
 
 福音書の中に、100匹の羊の中の失われた1匹を捜し求める羊飼いの話がある。いなくなった羊を捜すために、羊飼いは羊が迷って行った同じ道を辿らなくてはならない。道なき道であり、雑草やいばらの生い茂っている道である。迷った羊が傷ついたように、捜し求める羊飼いも傷つく。この場面を描いた有名な聖画がある。足を滑らせて谷を滑り落ち、灌木に引っかかっている羊。羊飼いは谷に身を傾けてその羊に手を伸ばしている。自ら危険に身をさらして危険に瀕している羊を見出すのである。傷ついた十字架の主イエスを暗示している場面である。キリストの十字架の右と左に処刑されようとしている強盗。彼らは罪の当然の報いを受けている人間。それ以外の結末はあり得ない人間。その人間の場所に、キリストは降りられるのである。

 十字架の言葉の愚かさ、それは降りていく愚かさである。自ら、あえて選んで降りていく愚かさである。それは人の知恵では理解できない。しかも、神がそういう道を選ばれるということを人は納得できない。なぜなら、人の知恵は必ず上に向かうものだからである。人の賢さは高みに向かうことしか知らないからである。高みに向かい、人を見下ろせる地点に立つことしか求めないからである。その意味で、十字架の言葉はまことに愚かである。

 しかし、「わたしたち救われる者には神の力です」と言われている。私たちはあの放蕩息子のように罪によって深く転落した。神はその私たちを追い求められる。ただ追い求めるのではない。聖なる神が罪の汚辱のただ中に身を投じられるのである。そのために神の全能の力は振り絞られなければならなかった。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。ここには振り切る神、振り捨てる神が示されている。独り子を振り捨てるために神の力は振るわれた。罪人を何としてでもご自身の下に引き寄せるために、御子を振り捨てるのである。十字架によって救われる私たちにとって、それは神の力そのものである。神の激しい力、罪人を追い求めるために振るわれる力である。この神の渾身のメッセージを伝えるために、神は「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と言うのである。十字架の言葉も愚かだが、それを伝えるためにも愚かな手段を選ばれた。世に救いをもたらす業をご自身の圧倒的な威力で進めようとはされなかった。人間を用いて進めようとされる。

 五千人の給食の話が福音書にある。夕暮れ時、大勢の飢え渇く群衆が追ってきたとき、弟子たちはうろたえた。群衆の激しい飢え渇きを受け止めきれないと思ったのである。群衆を解散させてくださいと主イエスに求めた。しかし、主は言われた。「あなたがたの手で食べ物をやりなさい」。弟子たちが持てる物は「五つのパンと二匹の魚」。

 主イエスはその弟子たちの持てる物を用いて、ご自身の御業を進めることを望まれた。救い主は、この弱い、限界のある、肉の罪ある人間を用いて、神の国の業を進めることを望まれた。それは、弱い、もろい、限界のある罪の人間に近づくイエス・キリストの謙遜の方法である。弱い者に弱い者を通して語りかけるのである。罪赦された人間が罪人の隣に身を置いて語りかける、それが神が選ばれた宣教の仕方である。「宣教という愚かな手段」である。「あなたがたの手で食物をやりなさい」。あなたがたにその実力があるからという意味ではない。あなたがたを私が用いるから、という意味である。あなたがたを用いて、私が神の国の働きを進めるという意味である。神の国の働きは他の仕方では行われない。この働きは神とともにあってなされる。この働きは神の御計画であり、主が進められる。今年も神とともに、主を信頼して宣教の働きに励もう。

平塚バプテスト教会

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