【全文】「礼拝はこども歓迎」ルカ9章48節

みなさん、改めておはようございます。今日も共に礼拝をすることができ、感謝です。またこどもたちもテレビやスマホの前に集ってくれているでしょうか。平塚バプテスト教会は子ども達を大切にする教会です。ぜひ一緒に礼拝をしましょう。

私たちの教会ではこどもプロジェクトというものを進めています。数年前から様々な取り組みをしていますが、まずは教会の敷地にあたらしい「こひつじ館」を建てました。そこで共同保育をしています。今はコロナの影響で開いてはいませんが、先日前を通った方が、また早く集まりたいと話をしてくださいました。地域の子どもとお母さんの憩いの場となっています。

また教会では「こども食堂」のオープンも準備しています。本来でしたら来月からということを予定していましたが、これもコロナが収まったら始めてゆきたいと思っています。

私たちはこのように子どもを大切にする教会を目指しています。そしてもちろん礼拝の中でもこどもを大切にします。子どもがのびのびと、ありのままでいられる教会を目指しています。いい子になったら教会においで、静かにできる子は教会においでではなく、まずおいで。声が響くかもしれないけれど、それを楽しむくらいの余裕で大人は礼拝します。そうやって子どもたちを歓迎しています。同じ場所で一緒に礼拝することを大切にしています。

今日の聖書個所は私たちの年間主題聖句です。私たちはこどもを大切にするという思いで、この言葉を年間主題聖句とし、週報の表紙に掲載し、毎週の祈祷会でも声を合わせて読んでいます。今日はこの一節に心を向け、礼拝は子どもを歓迎するということ、また弱さの中で礼拝を持とうということを見てゆきたいと思います。

 

さて私たちは日々、いろいろなことを祈るわけですが、多くの場合祈りは「神様」や「天におられる神様」という、神様への呼びかけから始まります。それは祈りが神様に向けられているものだから当然です。そして私たちの祈りは多くの場合、「イエス様の御名によって祈ります」とか「イエス様の御名を通じてお祈りします」という言葉で終わります。神様への呼び掛けで始まり、最後は「イエス様の御名によって祈ります」という言葉で終わるのです。今日の個所にも「わたしの名のために」とありますが、この言葉は私たちの祈りの最後と同じ意味の言葉です。

「イエス・キリストの御名によって」とは、イエス様を通してという事です。私たちの祈りは、神様に直接に呼び掛ける祈りです。そして同時にそれは神様によってこの地上に与えられたイエス様を通じても神様に呼び掛ける祈りなのです。神様はイエス様を通じて、ご自身の事、神様の事を教えるのです。だから私たちはそのイエス様を通じて神様に祈るのです。神様に祈り、イエス様を通じて祈る、それが私たちの祈りです。だから最後に「イエス・キリストの御名によって」と加えて祈るのです。

神様を受け入れるということも同じです。神様を受け入れる、信仰を持つという事は、イエス様を受け入れるということです。聖書に書いてあるイエス・キリストの歩み方を受け入れて、自分の生き方にしたいと受け入れる事が神様を受け入れてゆくことです。信仰を持つということです。イエス様、神様が派遣されたイエス様の歩み方を自分も生きるという事が信じるという事です。

しかし今日の個所、イエス様はこのように言います「子どもを受け入れるなら私を受け入れたことになる」そういうのです。神様から派遣されたイエス様、イエス様を受け入れる事は神様を受け入れることになるのです。そしてイエス様は子どもを受け入れる事は私を受け入れることになるというのです。いわば連鎖関係にあります。

神様=イエス様、イエス様=こどもと書かれているのです。神様はイエス様を受け入れるようにと言い、そしてイエス様は子どもを受け入れるように言うのです。神様を迎え入れるとは、イエス様を迎え入れること。イエス様を迎え入れるとは子ども達を迎え入れる事だと言うのです。つまり今日の個所、神様を迎え入れるとは子どもを迎え入れることなのだと言っているのです。

 

イエス様はどうして、子どもを受け入れる者は、私を受け入れる者だというのでしょうか。子どもがかわいくて、無邪気で、満面の笑顔だからでしょうか?もちろん子どもたちはかわいいのですが、かわいい子どもを受け入れることは命令をされなくても、案外簡単なことでしょう。子ども好きならばそれでいいのです。すぐに受け入れられるでしょう。

しかし、私たちが受け入れる子どもとは、単にかわいいだけの存在だけではありません。子どもとは無力で、弱くて、保護が必要で、ときにはわがままな存在です。子ども達を受け止めるというとき、私たちは子ども達の可愛さだけでなく弱さをも受け入れなければならないのです。

子どもを受け入れるという時、私たちには我慢と忍耐が必要かもしれません。キンキン響く声、よく分からない行動、座っていられずソワソワするのが子どもです。楽しいことだけではありません。そして子供を受け入れるという時、子ども達を危険から守り、教えることも受け入れなければならないことです。

今の時代はありのまま、その子らしさということが大事にされますが、イエス様の時代、子ども達は権利などありません。子どもは親の財産、所有物でした。そして小さいうちに多くの子どもが死んでしまいました。そのような弱くて、小さい存在、その命を大切に思う、イエス様はそのように生きたお方です。イエス様はものとして、財産として扱うのではなく、弱くて、保護と忍耐が必要な子どもたちとして、大切な命として受け入れていったのです。

私たちはこのような、弱さと欠けを持った子どもを受け入れることを通じて、イエス様に出会い、神様に出会うというのが、今日の聖書の個所です。弱さや欠け、実はそれを持っているのは子どもに限らないものです。力をなくし、弱くなっている人たち、それは大人でも多くいます。イエス様はそのような大人も優しく迎え入れる生き方をされました。弱く、小さい者を受け止め大切にしてゆく、その生き方を実践してゆくことが、イエスを様を、神様を迎え入れることになるのです。

弱くされ、小さく、自分を言葉で十分に伝える事ができない人々と関わり、その人たちを大切にする事がイエス様を受け入れることになるというのです。そして私たちは受け入れるだけではありません。それを受け入れてもらう側でもあります。無力さ、弱さとは全ての人の中にあるものだからです。私もそうです。自分や他者の弱さ、無力を受け止めてゆくということがキリストの生き方なのです。お互いの弱さを認め合い、それを受け入れ合う事、その生き方を選ぶことがキリストを受け入れる事だということです。

そして注意をしたいのはここで私たちは子どもになりなさいと言われているのではないという事です。私たちはすぐに子どもの様になってしまう存在です。待っていられなかったり、集中できなかったり、周りが見えなくなってしまう存在です。私たちはこどものような弱さを持っています。でも私たちは子どもになるのではありません。様々な欠けがある、弱さがある私たち、それを受け入れ合いながら、生きていく。子どもの弱さを当然のこととして受け入れるように、お互いの弱さを受け入れていく。そのような生き方がキリストを受け入れる生き方です。

そして私たちが最後に受け入れるべきものも考えましょう。それはイエス・キリストです。実はイエス様ご自身も弱いお方であり、ご自分の弱さを受け入れられたお方です。その一番が十字架です。イエス・キリスト、その方は強く勇ましく死んでいったのではありません。十字架で無惨に、叫び死んでいったお方です。どうして私がこんな死をと思うような、そんな弱くて惨めな死に方をし、それを受け止めたお方です。その弱いお方が、弱さを受け入れたお方が、子どものような弱さを受け入れなさいと言います。弱い私を受け入れる者こそ、神を受け入れることになるのだとおっしゃっています。

さて、私たちは礼拝ということを今、考えています。礼拝という面から見てもこれは同じです。私たちが礼拝で受け入れるのは、小さく無力で、弱い者、子どもです。そしてそれと同じくらい弱い自分やお互いです。そしてこの礼拝の中心にいるのも弱き者、弱くされた十字架のイエス・キリストです。その弱さを受け入れていくことが、十字架を受け入れてゆくことが、神様を受け入れてゆくことになるのです。

弱い十字架のキリストの姿。そして1週間の失敗と不足の中で生きた弱い自分の姿、弱い子どもたちの姿、それをまるごと受けとめてゆくことが、私たちの礼拝となってゆくのです。

礼拝にでると、元気になるとは本当はそういうことが起きているのです。1週間に1度礼拝に来て、やせ我慢したり、自分の自慢をして元気になるのでありません。礼拝の中で弱い自分、弱いイエス・キリスト、弱いこどもに向かい合い、強くなっていくのです。弱さを受け入れて強くなるのです。

今日の聖書の個所によれば、礼拝の中に弱さをもった者、自分や他者、子どもを受け入れる事が、私たちが神様を受け入れることになります。だからこそ礼拝の中には弱いもの、無力な者が必要です。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人が礼拝には必要です。私たちの無力さが礼拝の中には必要なのです。それを受け入れてゆくことが、キリストを受け入れる事になります。そこに弱い者、弱い私がいることが大事なのです。

自分や他者の無力さを受け入れる事、そして十字架を受け入れる、それがイエス様の歩んだ道です。それを教えてくれるのが子どもたち、傷ついた者、弱い者、弱い私たちなのです。だからこそ礼拝は子どもを歓迎します。礼拝は弱い者の集まりです。もっと弱い者が集まる礼拝としてゆきましょう。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人を歓迎します。そして一緒に神様に出会う礼拝をしてゆきましょう。お祈りをいたします。