【全文】「礼拝は平和の集い」ヨハネ20章19節~29節

みなさんおはようございます。今日もそれぞれの場所、インターネットで集うことができること、神様に感謝します。それぞれ離れた場所ですけれども一緒に礼拝をしましょう。そして子どもたちもみてくれているでしょうか。私たちは子どもを大切にする教会です。みんなも一緒に礼拝をしましょう。

今日はペンテコステを迎えています。ペンテコステは教会の誕生日とよく言われます。私たちの教会も来週で70年を迎えます。この70年間の守りに感謝です。もうすこし落ち着いたら、記念誌も発行したいと思います。その際はみなさんどうぞご協力ください。

ペンテコステ、それは50日目を意味することばです。イエス様は復活の後、弟子たちに現われ、40日間を共に過ごしました。そして天にのぼった後、さらに10日後、50日目に弟子たちに聖霊が注がれ、教会の働きが始まったという出来事がありました。それからこのペンテコステを教会の誕生日として祝うようになっています。そしてその後に、私たちの平塚バプテスト教会ができたわけです。平塚バプテスト教会には70年の歴史があり、その中で様々な出来事がありましたが、礼拝の歴史ということも大切な視点です。教会は礼拝共同体、礼拝仲間の集まりだからです。

礼拝の変化が教会の変化とも言えるでしょう。たとえば4月からこどもメッセージが始まっています。これがちゃんと継続できれば、70年の中で大きな変化でしょう。そしてそれぞれの自宅、インターネット配信という礼拝の在り方も、礼拝の歴史上、とても重要です。先日、これまでの礼拝の変遷をたどりました。資料の問題で十分に遡ることはできませんが。、70年間、礼拝の式順を大きくは変わっていない様です。しかしその中でもいくつかの変更がなされています。資料を見る限り、平塚教会の礼拝の歴史の中で、これまでの一番大きな変化、それは「平和の挨拶」が礼拝に取り入れられたことです。

「平和の挨拶」は2004年4月から始まっています。当時の総会資料で梶井先生が短く説明されていました。礼拝の前半で交わりを持つというのが目的だと書いてあります。それ以外が大きく変わらない、守られてきた中で「平和の挨拶」という変化が私たちのなかにありました。今日はこの私たちの教会の歴史上大きな変化だった、平和の挨拶について考えたいのです。

「平和の挨拶」それは、礼拝の中で互いの存在や平和を確認し合うためにあるのだということ、そして神様が共にいる事をお互いに確認しあうためにあるのだという事を見てゆきたいと思います。

平和の挨拶について考える時、疑問が二つあります。ひとつはなぜ礼拝の中で挨拶をするのかということです。私たちは礼拝の前に必ず会堂に入ってくれば挨拶をします。なぜ、もう一度改まって礼拝の中で挨拶をする必要があるのでしょうか。実際平和の挨拶は無い教会が多いのです。そしてもう一つの疑問はその挨拶になぜ「平和」という言葉がつく、「平和の挨拶」なのかといことです。ただの挨拶ではいけないのかという事です。

ひとつ目の疑問、なぜ挨拶するのかということですが、これは比較的すぐに答えがでるかもしれません。礼拝の中で挨拶することは、交わりを持つことの大切さを表現しているからです。それはみなさんもすぐに感じることだと思います。

礼拝の中で挨拶の時間を持つとき、私たちは礼拝は一人で受けているものではない、交わりの中で礼拝をしているのだと感じることができます。そしてそれは今日自分は誰と礼拝に参加しているかを具体的にする時となります。

実はこの平和の挨拶が無い教会では、前に座っている人は、後ろに誰が座っているか礼拝の最中まったく分かりません。今私は誰と一緒に礼拝をしているのかが、わからないのです。

これではなかなか私たち、礼拝共同体にはなることができません。私たちが誰と一緒に礼拝をしているのかを知る、今日どんな人が一緒に集まっているか、その多様性を知るということが平和の挨拶の大事な役割です。

そしてもう一つ大事だと思うのは、平和の挨拶の時、今日誰が来ていないのかにも気づくということです。毎週挨拶をするといつの間にか、今日は誰々さんが来ていないと気づくようになるのです。

今日誰と一緒にいて、誰がここにいないのか、その確認をお互いにしあう事、いったい私は誰と礼拝をしているのかを確認する機会、それが挨拶の時間なのです。礼拝の中で挨拶をする大切さはそこにあります。

しかしこの挨拶、賛否両論があるのも確かです。苦手な人が必ずいるのです。私も初めて礼拝に参加した日のことを覚えています。たくさんの知らない人に囲まれて、次々に握手を求められました。相当戸惑いました。最初はこの時間がとても苦手で、トイレに逃げたり、人のあまりいないところに隠れたりしたこともありました。苦手な方への配慮も具体的に必要だと思います。この共同体がどんな集団なのかまだ分からない人に、握手を突然求めるのは配慮しましょう。今でいうならば感染の不安がある中で、手を握り合うのは、お互いがお互いの事を知るという以上に、お互いを不安にさせることかもしれません。人と時にあわせて考えてゆく必要があるでしょう。でも確認したいのは、挨拶が大事だということです。それも礼拝の中ですることが大事だと言うことです。私たちお互いがひとつの体、礼拝共同体になるために必要な時だと思います。

二つ目の疑問はなぜそれが「平和の」挨拶なのかということです。それはただの挨拶ではなく、「平和の挨拶」なのです。平和の挨拶、それは私たちの関係が平和のうちにあるということを確認するための挨拶なのです。私たちの間には実に様々な人間関係があるわけです。とても平和とはいえない関係もあるわけです。不安な関係もあるわけです。でも、礼拝の中でお互いがお互いの平和を確認しあっていく、信頼を確認しあってゆく、それが平和の挨拶なのです。何かの連絡ごとをしてしまうことがあるのですが、極力やめましょう。互いの平和を確認する時にしましょう。

私たちにとっての平和とは何でしょうか。それは神様が共にいると知ることです。それが平和です。私たちが平和の挨拶をするとき、互いの平和と共に、神様が共にいる平和を私たちは確かめ合うのです。私たちが礼拝の中で「平和の」挨拶をするのは神様の存在を確かめ合うという意味もあります。

私たちは平和の挨拶を選び取りました。それは互いの存在を知り、互いに神様が共にいることを確認しあう時です。私たちは様々な状況や関係にあっても、お互いの平和、主が共にいる平和を確認する、そのような挨拶を交わしてゆく共同体です。そのために平和の挨拶があるのです。

さて、イエス様もこの平和の挨拶をなさったお方です。今日の個所もそのような場面です。今日の個所を見てゆきましょう。弟子たちは、イエス様が十字架にかけられてしまった後、家に閉じこもっていました。彼らは次は自分がイエス様のように殺されてしまうのではと恐れて隠れていたのです。そして彼らにはもう一つ、外には出たくない理由がありました。それは彼らがイエス様を裏切ったという事でした。彼らはイエス様がとらえられた時、一目散に逃げだし、裏切り、見棄てたのです。きっと彼らが閉じこもっていたのはこの事の方が大きかったではないでしょうか。裏切ってしまった自分への自己嫌悪、罪悪感が彼らを家に閉じこもらせたのです。

彼らは家に隠れていました。その理由は逃げるという事よりも、自分の世界に閉じこもったという出来事です。彼らは集団で、みんなと一緒にいましたが、誰も彼らは言葉も交わさなかったでしょう、自分の心に鍵をかけて閉ざし、集まっていてもバラバラの、人々でした。彼らは十字架のあと、集まっていても、自分の心を閉ざす、孤独で不安な共同体だったのです。そのような中に、その孤独と不安のまん中にイエス様が表れます。そしてイエス様は平和の挨拶をするのです。「あなた方に平和があるように」と言います。イエス様がここで再会をしたのは自分を裏切った弟子たちです。しかしその再会の第一声は、裏切られたことへの恨みではありませんでした。なんで裏切ったのかと理由を問い詰めはしませんでした。まずそこでイエス様は「あなた方に平和があるように」と、平和が告げられたのです。

「あなた方に平和があるように」。ここでおそらくイエス様はヘブライ語で「シャローム」と言っていたはずです。ユダヤの人々はいまでもそうですが、シャロームと挨拶をします。ですから日本語では「こんにちは」とも訳せる言葉です。

しかし、聖書はこの個所をこんにちはと訳しません。シャロームとは、こんにちはという意味と同時に、平和という意味を持つ言葉です。この挨拶は、こんにちは以上にもっと特別な意味がある挨拶だから「あなた方に平和があるように」と訳されているのです。

ヘブライ語のシャロームそれが現わしているのは、部屋に隠れいてれば自分の安全が保たれる、ここなら平和ということではありません。シャロームの平和、それは神様がともにいて、安心している状態です。そして私だけの安心ではなくて、ともにいる人々すべてに安心がある状態、それがシャロームです。つまり神様と共にいる平和とも言えるでしょう。それがイエス様の再会の第一声だったのです。イエス様の挨拶それは、平和の挨拶でした。自分を裏切った相手に対しての恨みではなく、和解の挨拶でした。そして神様が共にいる、それを実感させる挨拶だったのです。

私たちも礼拝の中で平和の挨拶を交わします。平和の挨拶は閉じこもっていないで、自分の心のカギを開けてどうぞ親しみを込めて挨拶をしてください。様々な人間関係があると思います。でもだからこそ互いの信頼と平和を確認し合いましょう。そして挨拶が苦手な方もいるでしょう。みんなで配慮をしましょう。その方が平和と感じることが出来るような挨拶をしてゆきましょう。そしていま私たち握手することが不安という思いもあります。お互いが平和を感じる事ができる挨拶を探してゆきましょう。

イエス様は私たちの真ん中に、私が不安と思うことの真ん中に表れて下さいます。そして「シャローム」「あなた方に平和があるように」そう挨拶をしてくださいます。神様が共にいる、その安心と平和があなたにあるようにと、挨拶をして下さいます。私たちも互いに平和の挨拶を交わし合いましょう。

そして再会できる時を待ち望んでいます。その時また、互いに信頼と、神様が共にいることを確認し合う平和の挨拶を交わしましょう。

 

お祈りをします。