「礼拝はみ言葉が中心」ルカ福音書4章16節~26節

ピカソの絵を始めてみた時、まったく理解できませんでした。その絵を見ても下手な絵にしか見えないのでした。しかしゲルニカという絵との出会いは衝撃的でした。この絵が何を書いたのか、その解説を聞いて、初めて私はその価値を知りました。この絵はゲルニカという街で起こった、ナチス・ドイツの無差別爆撃をモチーフにした絵だというのです。

その解説を手掛かりに、絵を見て想像力を膨らませると、戦争の恐怖や悲しみ、怒りを感じとります。この絵をどのように解釈するかも自由です。そこに正解はありません。しかし私はまったく理解できなかったこの絵を、ほんの小さな解説をきっかけに想像力をもって見るようになりました。それでもここで大事なのは絵の解説ではなく、絵そのものです。

私はこの絵と、絵の解説の関係、聖書と宣教の関係によく似ていると思います。礼拝の中で一番大事なのは、誰かの解説よりもみ言葉そのものなのです。ですから皆さんがみ言葉から受けたイメージ、感じたことや問いを、ぜひ大切にしてください。そのように礼拝を考える時、礼拝の中で一番大事なのは、宣教の時間という事よりも、聖書に直接触れる時、つまり聖書朗読が礼拝の中で一番大事だという事を感じます

当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕は最も名誉ある奉仕とされました。教師や旅人など様々な人がその奉仕を任されました。私たちも聖書朗読を当番にしてみてはどうでしょうか。

礼拝で一番長く時間を取るのは宣教ですから、礼拝の中心はこの宣教の時間だと感じることもあるかもしれません。しかし宣教とは「み言葉の僕」です。礼拝は聖書勉強会ではありません。もちろん聖書の言葉を理解すること、納得し、自分のものとすることもとても大事なことです。

今日の聖書の個所を聞きましょう。イエス様は今日の個所で、聖書朗読をされています。会衆もイエス様が聖書を読んだのを、かたずをのんで見守りました。私たちよりもっと集中して聞いたでしょう。

み言葉、聖書朗読が礼拝の中心です。では宣教とは一体何でしょうか。何を指し示すものなのでしょうか。ここでイエス様はみ言葉の実現を指し示しています。イエス様が聖書朗読の後に持たれた宣教、その役割は今日のみ言葉がすでに私たちの中に実現をしているということ、あるいはもうすぐ実現するという事、そのことを確認するということがイエス様の宣教でした。

私たちもそのような宣教の時を持ちましょう。今日私たちには、一緒に礼拝することが実現したのです。捕らわれていた人が解放されたように、自宅に捕らわれていた私たちは解放されたのです。それが今日私たちの礼拝で実現したことです。まだ集うことが出来ない方にもきっとそれが起こります。

今日私たちはこの礼拝の中で、このみ言葉を中心としましょう。そしてこの宣教の時、それぞれにみ言葉のイメージを頂いてゆきましょう。