70年の歴史の中で幼稚園の閉鎖、それは残念な出来事でした。当時の記録によりますと、1978年12月に初代牧師・長尾三二先生が天に召された後、附属紫苑幼稚園の運営を誰がどのように担っていくのかで混乱が起きています。英才教育の方針を引き継ぐのか、それとも新しい人に依頼してゆくのか。その対立は新入園児の保護者を巻き込んで深まってゆきます。そして結局、幼稚園教諭全員の退職につながります。その分断は、教会にも及びました。長尾先生のご家族が教会を去ることになってしまいました。何とか幼稚園は続きましたが、結局幼稚園は8年後に休園、さらに2年後閉園となりました。平塚教会にはそのような歴史があります。
このような状況でも教会が続いたのは、そこに不思議な力が働いたからでしょう。教会が死んでしまうかもしれない時、神様の息吹が降り注ぎ、教会は残りました。そこにはもちろん牧師や奉仕者の頑張りがありました。しかし何よりも、神様がこの教会に命を与えるという決断により、この教会は続きました。すべての人が、神様の言葉を聞くために、神の子イエス・キリストを信じるために、神様がこの教会を建て続けると決めたのです。
教会の70年の歴史、そこには確かに「無力さ」が刻まれています。そして同時に、そこに確かに神が働き続けたことが刻まれています。栄光だけではない平塚バプテスト教会、でもそこに神様の力が注いだのです。
今日の聖書個所を見ましょう。イエス様は38年間立ち上がることのできない、立ち上がる力のない人を癒したのです。その力強さに皆が驚きました。しかし、イエス様ははっきりと言います。19節後半です。「自分からは何事もできない」と。自分は無力だというのです。
21節、それはまるで、死者に命が与えられるような出来事です。もう終わったと思っていたものが、もう一度息を吹き返す出来事です。24節、それは無力の中で神様の言葉を聞くということです。無力の中で神様の言葉を聞くその時、命が輝き出すのです。無力さは断罪され、切り捨てられ、強い者が生き残るのではありません。弱い者、無力な者こそ、神様の言葉を聞き、命が湧き起こされるのです。25節、無力さの中に神の声が響き渡る時、今がその時です。私たちの無力の中に神様の力が今、与えられるのです。
教会の歴史には無力さがあります。でも、それでも私たちの教会が70年間立ち続けた事、それこそがイエス様が行っている業そのものです。この教会が今日もここに存在することこそが、イエス様の力の証しです。
平塚バプテスト教会は70周年を迎えました。私はこの教会をもっと力強い教会に成長させてゆきましょうとは言いません。これからも私たちは、70年間そうであったように、無力な群れでありましょう。そしてそこに神様の力を求めてゆきましょう。そのような弱い中、無力さを覚える時にこそ、何よりも確かで、真実な神様が豊かに働くのではないでしょうか。