「非暴力抵抗の神」ヨハネ8章3節~11節

こんな問いを受けたら皆さんはどうするでしょうか。たとえばある男があなたの家族を、殺そうとしているとします。あるいは殺されてしまいました。あなたはどうするでしょうか。私も罪人だからあなたを赦しますと言えるでしょうか。それともその男を殺すでしょうか。それとも自分がされたのと同じ様に、復讐としてこの男の家族を殺しに行くでしょうか。

この問いには色々な答えがあると思うのですが、家族を殺されたら、相手の家族を全員殺すという選択をする人はまずいないと思います。その選択をすると、今度は相手の家族がまたあなたを殺しに来るからです。この選択はもっとも不毛で、負のサイクルに陥る選択です。

しかし、それと同じ事が世界で起こっています。戦争です。例えばアフガニスタンの紛争はそのようにしてはじまりました。この戦争は、自分の家族を殺された人が、相手の家族を殺すという構造です。自分の家を壊された人が、相手の家族の家を近所まるごと爆破するという構造です。私たちは暴力ではない力で、平和を実現させたいのです。たとえ暴力を受けたとしても、暴力で返すのではなく、違う方法で平和を実現させたいのです。

今日の聖書個所、イエス様がいるのは、抵抗するすべをなにも持たない女性が、いままさに殺されるようとしている・・・先ほど皆さんに問いかけた質問と同じ場面です。暴力による死を目前としたイエス様はどのような行動をとったでしょうか。イエス様は石を取って投げ返し女性を守ろうとしませんでした。また法律だからしかたがないと、粛々と法が執行されるのを見ていたのでもありません。イエス様は暴力を否定します。たとえ法律にそうあったとしても、誰かの命を守るためでも、暴力を用いることを否定します。

イエス様の行動は非暴力による抵抗です。人々の敵意・憎しみを捨て去らせるという行動をとったのです。石を持って投げようとしていた人々はイエス様の問いかけによって、人はまた必ず立ち返って歩むことができること、そして私たちと共に生きていくことが出来ことに気づいたのです。

イエス様は暴力によってではなく、そして罪をうやむやにすることでもなく、これに立ち向かわれました。イエス様が大事にしたのは、非暴力の力です。非暴力こそ人を変え、動かすことを示したのです。

私たちも世界を、そして日常をそのような視点で見たいのです。世界には暴力によって状況を変えようとすることがたくさん起きています。でもそれに新しい暴力で立ち向かう時、必ず負の連鎖が生まれ、多くの人が死にます。私たちの日常でもそうです。DV、パワハラ、セクハラ、忖度、様々な暴力があります。これに非暴力で抵抗したいのです。

暴力に直面したとき、私たちはどのようにすべきでしょうか。やむを得ず暴力しかないと考えるのは間違えです。必ず非暴力による抵抗が出来るはずです。イエス様と共に非暴力の中で何ができるか共に考えてゆきましょう。