【全文】「非暴力抵抗の神」ヨハネ8章3節~11節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝です。また先週は夏休みをいただきありがとうございました。また今日からよろしくお願いいたします。そしてその間の宣教の奉仕を担ってくださったYさんにも感謝です。

先週はお休みをいたしましたが、私たちは今月平和をテーマに礼拝を持ってきました。第1週は「平和の食べ物」自分だけの利益ではなく共に食べる共に生きる道をさがすのが平和ということ。第2週は「神はウブムエして下さる」神様が私たちと一致して下さる、だから絶対一致できないと思う私たちの関係にも、必ず一致・平和があるということ。第3週は「力を誇示しない神」神様は強さを見せつけるのではなく、十字架を見せることによって平和を示すということを見てきました。第4回目の今日は、神様は非暴力による抵抗で平和を作り出す方だということを見てゆきたいと思います。

こんな問いを受けたら皆さんはどうするでしょうか。たとえばある男があなたの家族を縄で縛り、ナイフを持って、いまにも殺そうとしているとします。警察を呼ぶことができないとしましょう。あなただったらそんな時どうするでしょうか。あるいはもしその時、みなさんの手に拳銃があったらどうするでしょうか。それを使って、凶悪な男を撃ち、家族を助けるでしょうか。

でもよく考えてみてください。皆さんは拳銃を撃ったことがあるでしょうか。仮に撃つことができたとしてその弾は、家族にはあたらず、犯人にあたり、死なない程度で、動けない程度のちょうどよい傷を負わせることができるでしょうか。

そんな事を考えていたら、やはり家族は殺されてしまいました。ではあなたはどうするでしょうか。私も罪人だからあなたを赦しますと言えるでしょうか。それともその男を殺すでしょうか。あるいは自分がされたのと同じ様に、復讐としてこの男の家族を殺しに行くでしょうか。倍返しにして、家族全員を殺すでしょうか。

でもそもそも、この男。なぜ私の家族を殺そうとしているのでしょうか、私の家族が何かをしたのでしょうか。そもそも、警察を呼べないという前提も無理のある問いでしょう。

この問いには色々な答えがあると思うのですが、家族を殺されたら、相手の家族を全員殺す。その選択をする人はまずいないと思います。その選択をすると、今度は相手の家族がまたあなたを殺しに来るからです。この選択はもっとも不毛で、負のサイクルに陥る選択です。

 

しかし、それと同じ事が世界で起こっています。戦争です。例えばアフガニスタンの紛争はそのようにしてはじまりました。9・11、アメリカ世界貿易センタービルに2つの飛行機が突っ込み、3000名の人々が命を奪われました。当時、その映像は世界に衝撃を与えました。その翌日です。アメリカのブッシュ大統領はテロとの戦いを宣言します。そしてアフガニスタンのタリバン、ウサマ・ビン・ラディンを容疑者として攻撃を開始しました。

戦争は兵隊同士がするはずのものです。しかし、この戦争が開始されて以降、いえどの戦争もそうですが、空爆や国内の混乱などで、何万人もの民間人が命を落としました。結局、貿易センタービルの何倍もの死者が生まれたのです。

この戦争は、自分の家族を殺された人が、相手の家族を殺すという構造です。自分の家を壊された人が、相手の家族の家を近所まるごと爆破するという構造です。いったいこの戦争はなんだったのでしょうか。民間人が殺されたことによって始まった「テロとの戦い」。それは皮肉なことにより多くの民間人の犠牲者をだしました。そしてこの紛争は20年近くたっても続いています。

この紛争は誰が被害者で、誰が加害者だったのか、もうわからなくなってしまいました。最初に攻撃をしたのはビン・ラディンの側かもしれません。3000人の人が無惨に殺されました。しかし一方アフガニスタンでは何万人もが無惨に殺されています。

私の家族が殺されたら、当然怒りが収まりませんが、だからといって相手の家族を皆殺しにしようとは全く考えません。家が壊されたからといって、相手の家を近所ごと爆破していいわけはありません。でも戦争とはそのような考え方です。やられたら何倍にもして返す。たとえ相手が抵抗できない民間人であっても関係ありません。それが戦争です。

私たちはその戦争に断固反対をします。日本がそのような戦争に協力することも反対します。当時日本の自衛隊はアメリカの船に給油をしていました。私たちも攻撃に協力をしていたのです。それは、私たちの目指す平和とは全く違う形です。私たちは暴力ではない力で、平和を実現させたいのです。たとえ暴力を受けたとしても、暴力で返すのではなく、違う方法で平和を実現させたいのです。そのことを1カ月間ずっと考えてきました。今日も聖書からそれを考えてゆきたいのです。

今日の聖書個所を見ましょう。今日の聖書の個所は7:53から8:11までが一塊ですが、実はおおもとの聖書には記述の無い個所です。おおもとの聖書に無い、後から追加された個所です。ですからカッコでくくられています。聖書には後からくわえられたけれども、イエス様が実際にこう言ったのではないかと考えられて、とりあえずカッコ書きにして載せられています。こういうカッコ書きは何か所もあります。やや聖書としては宙ぶらりんな位置づけです。しかし宙ぶらりんがたくさんあるのは、聖書には一言一句の誤りが無いというわけではなく、聖書自体にこういうあいまいな個所があるということを示しています。聖書自体が、これが答え、唯一の答え、と言っていないということです。

さてそんな今日個所ですが、イエス様がいるのは、抵抗するすべをなにも持たない女性が、いままさに殺されるようとしている・・・先ほど皆さんに問いかけた質問と同じ場面です。そういう場面にイエス様は本当に居合わせたことがありました。彼女は姦淫の罪、不倫をおかしているその場所で、現行犯逮捕されたのです。

こういう場合当時の法律、レビ記20:10によれば、不倫は必ず死刑だと明確に書いてあります。正確には「男も女も必ず死刑」と書いてありますが、どうやら実際の運用は女性だけが殺されたのでしょうか。

暴力による死を目前としたイエス様はどのような行動をとったでしょうか。もちろん律法学者と一緒になって石を投げようともしませんでした。イエス様は石を取って投げ返し女性を守ろうともしませんでした。また法律だからしかたがないと、粛々と法律が執行されるのを見ていたのでもありません。祈ったでしょうか。天使が律法学者・ファリサイ人を止めるように祈り求めたでしょうか。あるいはまた弟子たちを呼び、石をとって石の投げ合いをしたりもしませんでした。イエス様は暴力に暴力で抵抗しませんでした。

イエス様は暴力を否定します。たとえ法律にそれで良いと書いてあったとしても、誰かの命を守るためであっても、暴力を用いることを否定します。でも見ているだけではありません。非暴力で抵抗します。このあと十字架に至る場面で、剣に頼ろうとしたペテロを止めているのも同じです。イエス様は非暴力の抵抗によって歩むのです。

イエス様がここでした行動、それは非暴力による抵抗です。暴力に暴力で抵抗するのではなく、人々の敵意・憎しみを捨て去らせるという行動をとったのです。被害者・加害者を超えて、物事を考えるように促します。そして彼らの良心に訴えます。人を殺そうとする暴力に対して、それとはまったく別の力を用いて、彼らに立ち向かったのです。

石を持って投げようとしていた人々はイエス様の問いかけによって気づいたはずです。法律にはそう書いてあっても、殺される必要はないと。人はまた必ず立ち返って歩むことができる。そして私たちと共に生きていくことが出来る、石を投げようとした人は気づいたのです。

 

イエス様は暴力によってではなく、そして罪をうやむやにすることでもなく、これに立ち向かわれました。イエス様が大事にしたのは、非暴力の力です。非暴力こそ人を変え、動かすことを示したのです。

そしてその時、イエス様はこの物語の中で一番死に近い、小さく、弱い立場に追いやれている人の側からこの出来事を見たということも大事です。一番殺されてしまいそうな人から見ています。そこに加害者も被害者もありません。この女性の命を、暴力以外の方法で救うという事を一番にしたのです。もし男性が一緒に石打ちにされようとしても同じ行動をとったでしょう。

私たちもこの視点を大事にしたいと思います。出来事の中で誰が一番小さく、弱くされ、暴力に直面し、死に直面しているかということです。その時一番小さくされている人から物事を見る、そして暴力ではない力で平和を求めてゆく。それがイエス様の方法だったのです。

私たちも世界を、そして日常をそのような視点で見たいのです。世界には暴力によって状況を変えようとすることがたくさん起きています。でもそれに暴力で立ち向かおうとする時、新しい暴力で立ち向かう時、必ず負の連鎖が生まれ、多くの人が死にます。私たちの日常でもそうです。DV、パワハラ、セクハラ、忖度、様々な暴力があります。これに非暴力で抵抗したいのです。

私たちはイエス様の様に、非暴力抵抗によって、状況を変えてゆきましょう。いま世界で、日本で、平塚で小さく、弱くされている側から世界を見ましょう。そして暴力によってではない力で、非暴力によって平和を実現してゆきましょう。イエス様がそのことを私たちに示して下さっています。

暴力に直面したとき、私たちはどのようにすべきでしょうか。やむを得ず暴力しかないと考えるのは間違えです。必ず非暴力による抵抗が出来るはずです。イエス様と共に非暴力の中で何ができるか共に考えてゆきましょう。お祈りをします。