【全文】「神はすべての人の光」ヨハネ12章20節~31節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝をいたします。今日も主の晩餐をできないことはとても残念です。主の晩餐がないのが普通になってしまうことを心配しています。いま私たちは主の晩餐にあずかることができませんが、ともにそれができる日を祈りましょう。

8月は共に平和を覚えてみ言葉を聞いてきました。9月は「こども」をテーマに宣教をしてゆきたいと思います。平塚教会はこどもプロジェクトをすすめています。こどもを大事にする教会です。こどもたちとともに礼拝をささげましょう。

先日、私は夏休みを頂き、裾野のキャンプ場に行ってきました。私もこどもに戻って休暇を楽しんで過ごさせていただきました。キャンプ場にテントを張って、そこから近くの動物園に行ったり、洞窟探検をしたりしました。とてもよい気分転換になりました。

キャンプにはいろいろな道具が必要ですが、中でも照明器具、明かりが大事です。初めてのキャンプで、なぜだかランタンに火が付かなかったとき、とても味気のない、薄暗いキャンプになってしまったことがあります。今は、小さな明かりも含めれば10個以上の明かりをもってキャンプに行きます。全体を明るくするランタン、足元を明るくするライト、テントの中で寝るときに使うライト、キャンドル、あとは焚火も大事です。焚火を囲んでいろいろな話をします。

たくさんの明かり、いろいろな明かりを持っていくと、普段は気づかないけれども、私たちの生活が、あふれる光に囲まれているということに気づかされます。私たちはいつもスイッチ一つで、眩しすぎるくらいの光の中にいるということに気づくのです。

あえて不便な場所、テントで寝泊まりをすることで、光・明かりの大事さ、いつもそれに囲まれていることに気づくのです。そして星の明かりもそうです。不便な場所、人里離れた場所でこそ、星の明かりは、美しく見えるものです。テント中では、不便さも贅沢に感じます。暗さの中ではかえって光を敏感に感じるようになるのです。テントの中は朝、日の出とともに明るくなります。いつもカーテンを閉めた部屋で寝ていますが、テントの中は日の出とともに明るくなります、そうするともう寝ていられないくらい明るく、いつもよりずいぶん早く目を覚まします。

 

私たちは普段、たくさんの明かりに囲まれています。しかし停電が起きたり、このようにテントで過ごすような、いつもと違う環境になったとき、はじめて光の中にいたことに気づくものです。でもそんなことを考えていると、このことは私たちが、たくさんの神様の恵みに囲まれているということと似ているのではないかと感じます。

いつも私たちが明るい光に囲まれて生活をしているように、私たちはいつも光、神様の恵み中に生きているということです。それは普段は気づかないことです。いちいち意識しないものです。でもいったん、いつもと違う環境になったとき、暗い気持ちなるような出来事が起きた時、自分たちはいままで光の中にいた、神様の恵みの中にあったということに気づくのです。

コロナがそうだったでしょうか。普段、私たちを囲んでいるものがいかに明るく、大切なものだったのかに気づきました。そして毎週、習慣のように来ていた主日礼拝の恵みを改めて知りました。それはきっと、日々当たり前に明るい中で生きる私たちが、明かりの大事さを知った出来事に似ているでしょう。

私たちは、日々神様の豊かな恵み、光の下で生きています。それに気づいていても気づいていなくても、感謝しても感謝しなくても、みんな神様の恵みのもとに生きています。私たちは時々足を止めて、あるいは足を止めざるをえない状況になって、はじめて神様のもとに生きているということを実感できるのでしょう。

もし暗い気持ちになるような出来事があったのなら、なおさらです。その中にも必ず神様の恵みを見つけます。光があります。それは今までずっとあったものですが、周りが暗くなる時、いままでよりもっと明るく感じることができるはずです。

それが神様の希望の光を見つける時です。絶対消えない希望を見つける時です。すでに神様は私たちを明るく、すべての人を照らしてくださっています。今日はそのことをもう一度感じる時にしたいのです。

今日の聖書個所を読みましょう。今日の個所も実はテントと光が重要なカギです。今日の場面は、仮庵祭という祭りの最終日に起きた出来事でした。仮庵とは仮小屋のことです。出エジプトの際に人々が仮小屋、テントで過ごしたという出来事を忘れないためのお祭りでした。この祭りでは、人々は自分の畑に仮小屋を作り、過ごしたといわれます。キャンプです。

そしてその祭りは、光の祭りでもありました。出エジプトの時、自分たちを導いてくれたのは、雲の柱、火の柱でした。その火の柱が再現されたのです。エルサレムの神殿の一番高い場所に炎がともされたのです。それはエルサレムの町中から見えたといいます。神様の火の柱、神様の光が苦境にあった自分たちを導いたということを思い出す祭りが仮庵祭、今日の場面です。自分たちが仮小屋で、テントで不便な生活をする中で、光に気づいたということを記念する祭りでした。

聖書にはたびたび光という言葉が使われます。天地創造は「光あれ」から始まります。そしてエフェソ5:8には「光の子として歩みなさい」とあります。様々に光が語られています。時には全く違うように語られている場所もあります。今日の個所でイエス様は「私は世の光だ」といっていますが、マタイ5:13、14には有名な「あなた方は地の塩、世の光」とあります。ヨハネはイエス様は光なのだといい、逆にマタイは私たちは光だと言っています。

様々な表現方法がありますが、まず大事なのは、光は神様から出ているものだということです。私たちが、自分自身で輝く、自家発電しているのではありません。私たちは神様から光を頂いて、光を放つのです。神様の光を受けて、私たちも光の子として歩むことができるというのです。まず神様は光だということです。

そしてそれに照らされて私たちも光となるのです。世の光である神が、私たちを世の光として下さるのです。この光は普段は気づかないものでしょう。意識をしないものでしょう。しかし、今いる場所が暗くなれば、気づくものです。あるいは暗い場所に行けば気づくものです。不自由さや病や苦しみの中でこそ気づくものです。疲れたり、暗い気持ちになったりする時により、光に気づくのです。

神様はそうやって私たちにご自分を表そうとします。普段から私たちとともにいて下さり、私たちを囲み存在してくださっているお方です。しかし、私たちが仮小屋にいる時、テントにいる時、不自由の中にいる時、苦難の中にいる時、その時にこそ私たちによりはっきりとわかるように、光として、明るく私たちに表れて下さるのです。

そして神様はただの光ではありません。ただ私を照らすただの光ではありません。イエス様は世の光です。世の光、それは世のための光、世界全体のための光といえるでしょう。私一人のための光ではない、みんなの光です。

光はイエスを信じた人だけを照らすのではありません。いえ確かに「私に従うものは暗闇を歩かない」とあります。ですから、従わない人、信じない人は暗闇をさまよっているかのように聞こえます。しかし、それではイエス様は世の光ではありません。せいぜいクリスチャンの光です。神様は従った人にだけ光をあげる、キリスト教はそんなケチな宗教ではありません。イエス様は世の光です。世界全体を照らす光です。

13節には、信じようとしない人の代表としてファリサイ派の人々が登場します。いろいろな理由をつけて、イエス様は世の光なんかではないと言おうとします。でもそれでもその彼らも光に照らされている人々です。14節「あなた方は私がどこから来て、どこに行くのか知らない」とあります。この人々も光に照らされています。でも光がどこから来て、どこを照らしているのかを知らない人々だというのです。

私に従うものは暗闇を歩かないとは、イエス様に従おうとする時、自分がずっと光にてらされていたということに気づくということです。苦しい時、暗闇に思える時も、イエス様に従おうとする時、いままで照らされていた光に気づくということです。そしてその光がイエス様から発していて、私たちに向けて発せられていて、私たちを輝かせているということを知るということです。イエス様に照らされて、私たちは光となっているのです。だから私たちは命の光を持っているのです。

イエス様の光は世の光です。世界全体、すべての人を照らす光です。この世界には闇の人と光の人の2種類がいるのではありません。すべての人が太陽の光に照らされているように、すべての人が神の光を受けて生きるのです。

イエス様に従おうとするとき、それに気づきます。光がどこから出ているかを知ります。そしてその光が自分と他者に向けられていると気づきます。その時もう自分は闇にはいないと気づくのです。イエス様に従おうとするとき、すでに照らされ続けていて、自分が、人々が輝いていることに気づくのです。今日の個所はそのことを語っています。

さて、子どもというテーマでと言いましたが、子供というテーマでも加えておこうと思います。もちろん光の子と闇の子がいるのではありません。教会の子が光の子、教会に来ない子は闇の子ではありません。すべての子供が光の子です。いえ、すべての人間と被造物が光の子です。

大事なのは、その光に照らされていると子供が自分で気づくことです。教会はそれを助ける場所です。教え育てる場所です。子供がつらい時、我慢ができないときも温かく見守ることが大事です。こども食堂ってそういうことでしょう。私たちが子供を大事にする時、なんか僕にも光が当たっているかもと子供に伝わっていくのではないでしょうか。

それは大人たちも同じでしょう。つらい時、誰かに大事されたとき、お互いに大事にしあうとき、そっと寄り添うとき、光を指し示すとき、お互いが神様の光に照らされていることに気づくのではないでしょうか。お祈りをいたします