【全文】「イエス様の行動から信じる」ヨハネ10章31節~42節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること、感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も子どもたちとともに、礼拝をしましょう。また今月は世界をテーマにしながら聖書のみ言葉に聞いてゆきたいと思います。

先週ご説明したように、今日はこの後、久しぶりに主の晩餐を行います。いつもは祈り、パンとブドウジュースを飲んでいます。それはイエス様とともに過ごした日々を思い出す、忘れないために行う大切な儀式です。

今日はコロナの防止の観点から、パンと杯をなしで、み言葉のみで執り行います。それがなくては主の晩餐にならないという思いもありますが、今できる最大限の方法だと思います。

これを機会に改めて主の晩餐について考えてどのように自分が受け取っていたか、もう一度確認をしてゆきましょう。あのパンを食べるという行為は一体何を目的としていたのでしょうか。それはイエス様と一緒にした食事と、一緒に行動した日々を記念するため、思い出し、忘れないようにするためです。

ですから本当はパンと杯があった方が良いのだけれども、その方がより強く思い出すのだけれども、今は事情が許しません。今できる形で最大限イエス様との食事を、イエス様との行動を思い出すという方法をとります。

どんなかたちであれ、主の晩餐ができることはやっぱりよかったと思うことでしょう。しかし、主の晩餐とは「ああ、久しぶりにできて良かった」で終わることができない事柄です。主の晩餐を受けると、それを受けてどう生きるか、イエス様との食事と日々を思い出してしまったあなたは、この1週間をどう過ごすのかが問われます。それが主の晩餐です。イエス様の愛を近くに感じるからこそ、私たちはそれに突き動かされてしまうのです。

今月私たちは世界をテーマに聖書を見てゆきます。今日はキリスト教の多くの教会で、教派・グループを超えて「世界聖餐日」という日をもっています。あまり聞きなれない言葉かもしれませんが、世界聖餐日とは、世界中のキリスト者が主の晩餐によって一致しを確認し、互いの信仰を認め合う日です。

この世界聖餐日は特に第二次大戦中に世界に広がりました。世界中のクリスチャンが戦争のさなかにあって、この主の晩餐において一致を確認し、平和を求めたのです。それがこの世界聖餐日です。今日、世界中の教会がコロナ禍の中で、様々な形で主の晩餐を持っている、あるいは中止をしています。私たちはこの世界に連帯する主の晩餐を今日持ちたいと思います。

このコロナ禍の中で、世界の一致、連帯、愛の行動がより強く求められています。世界聖餐日、そのことを覚えたいのです。

私たちは、はやくワクチンを打って、安心して礼拝をできるようになりたものです。しかし、コロナワクチンは新しい問題を突き付けています。ワクチンナショナリズムの問題です。いま世界はワクチンの争奪戦と開発競争のなかにあります。力とお金のある国がワクチン独り占めにしようとします。あるいは人々のためではなく、国際社会で優位に立とうという理由で、世界に先駆けてワクチンを開発しようとしている国もあります。そして世界のワクチンの三分の二は欧米や先進国だけに使われると言われています。このままでは途上国での感染拡大を抑えることができません。それは結果的に世界的な再流行を招きます。

ワクチンについて世界がどう一致と連帯のある行動をとれるかということが問われています。今、世界が愛の行動をとり、分かち合うことができるかが問われています。

WHOは、世界各国にワクチンを公平に届けるための枠組みを作り、それに参加するように呼びかけています。日本の他150か国以上はこの枠組みに参加していますが、米国や中国、ロシアは参加していません。日本は自国分を確保したうえでこれに参加しています。

国籍や国境によってワクチンの有無が決まるのではなく、より必要な人に行き渡るように願います。自分と自分の周りが守られればよいのではなく、世界の命が守れること、必要な人に、必要な支援とワクチンが行き渡ることを願います。人々が愛の行動をとることができるように願います。

コロナの時、主の晩餐をするとき、イエス様の愛の行動を思い出します。そして世界が自国優先、自分優先ではなく、一致と連帯、愛の選択、愛の行動をすることを願いつつこの主の晩餐をいただきます。世界聖餐日、このことを覚え、主の晩餐にあずかり、そして聖書を読みたいのです、

 

今日の個所をお読みしましょう。今日も石をもって、殺意をもって、暴力でイエス様に対峙する人々が現れます。イエス様は暴力にどう向き合うのでしょうか。今日もイエス様は非暴力で向き合います。パワーに対して、パワーで返すことはしません。

彼は神の言葉によって抵抗をします。非暴力で抵抗するのです。力、軍事力や経済力で問題を解決しようとしないイエス様の姿です。聖書には確かに暴力を容認するような箇所もあります(レビ)。しかしイエス様はそれを否定します。非暴力によって、抵抗をするのです。愛の行動によって、問題に立ち向かわれるのです。

今日の個所でイエス様は38節、私を信じなくても、私の業・行いを見て信じなさいと言います。業とは奇跡だけを指す言葉ではありません。奇跡を見たのだから信じないさいということではありません。業とはイエス様の人生全体、行動全体、生きざまそのものを指します。

イエス様の行動、生き様、それは今日の個所では暴力に対して非暴力・み言葉で立ちむかうという生き様です。その私の生き様、姿、後ろ姿を見て、信じなさいというのです。

イエス様の愛の行動・生きざまを見て、私を信じなさいといいます。イエスの生きざま、どのような生き様だったでしょうか。今日の個所では非暴力です。あるいは別の個所で石に打たれて殺されそうになった女性がいました。姦淫の罪を犯したと言われる女性です。イエス様の生き方、行動は、死に直面している弱い立場の側に立つという生き方でした。

あるときは差別をされているサマリアの女性に出会いました。その時も差別を超えて、対話した女性は、イエスのその業、愛の行動によって信じるようになりました。

あるときは生まれつき目の見えない人、この両親はどんな悪いことをしたのかと指をさされている人に向けて、愛の行動をとられました。それは罪からではなく、そこに必ず神様が働かれるのだと言いました。不自由を持つ人の名誉を回復する行動、愛の行動でした。

ヨハネの主の晩餐、5000人の共食でいうならば、食べ物を独占するのではなく、分かち合う、独占に反対する生きざまでした。生活に困窮する人々と食べ物を分かち合う愛の行動でした。

イエス様の業、生き様、行動とはそのようなことです。神様の愛をそのまま生きる、生きざま、愛の行動だったのです。

イエス様は、業を見て信じなさいと言います。私たちは聖書の知識や奇跡の体験だけで神様を信じるようになるのではありません。私たちはイエス様の生き様、愛の行動を見て信じるようになるというのです。

イエス様はヨルダン川の向こう側に退かれました。そしてその先で多くの人がイエス様を信じたといいます。その理由は「しるしを行ったから」です。愛の行動を目撃した人々が、イエス様の生き様を通じて、愛の行動を通じて、神様の存在を信じるようになったのです。

イエス様を信じた人とは、洗礼者ヨハネにはないイエス様の行動、生きざまに関心を示し、信じるようになった人々です。愛の行動を見て、信じたのです。

私たちがもし、神様のことを信じることができないと思うのなら、難しくてわからないと思うなら、言葉が難しい、愛とはなんであるかわからないと思うなら、ぜひイエス様の生きざまを見てください。イエス様の愛の行動を見てください。そうすればきっと神様のことをわかる、そう今日の個所は語っています。

イエスの行動を知れば、ああこの人を信頼したい、この人との関係を続けたい、この関係の中に生きたい、入りたいと思うでしょう。それが業を見てしんじるということです。イエス様の愛の生きざま、地上での歩みを通じて、神様の存在を信じるようになるのです。

私たちはイエス様の行動を見て、信じます。そしてその愛の行動を思い出すために、この主の晩餐を持ちます。この主の晩餐によって、イエス様の愛の行動を繰り返し思い出すのです。そしてこの主の晩餐によって、私たちも愛の行動へと押し出されます。これを受けると、あなたも愛の行動をしたいと願うようになります。それがイエス様に従うようになるということです。

信仰とはイエス様にならって、具体的に従うということです。愛の行動をするということです。愛のある態度をとるということです。イエスのような生きざまを目指すことが信仰です。自分優先、今優先、経済優先をやめること。他者に仕え、未来を守り、命を優先にしてゆくことが愛の行動です。

私たちは久しぶりの主の晩餐、イエス様と一緒にいた食卓を覚えて、イエス様の愛の行動を思い出して、この晩餐をいただきます。

私と神様、私ととなりびと、私と世界の人々を覚えて、この主の晩餐をいただきましょう。そしてこの主の晩餐で、イエス様の愛の行動を思い出しましょう。これをいただき、私たちも愛の行動を選びましょう。

今日は世界で共に主の晩餐が行われます。私たちもそれにあずかり、愛に生きるものとして歩みましょう。お祈りいたします。