【全文】「バプテスマって何?」マタイ3章7節~12節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、うれしく思います。私たちは子どもたちを大切にする教会です。特に今日は子どもたちを祝福する時をこの後に持ちます。大切にする子どもたちの成長は私たちにとってとてもうれしいことです。一緒に礼拝をしましょう。

今日から1年間、マタイによる福音書からの宣教をスタートします。ヨハネ福音書を1年間かけて読んできたことにも感謝です。聖書には4つの福音書があります。同じ一人のイエス様を描きながらも、書いた人が違います。同じ出来事でも4つの視点で書かれています。

ヨハネ福音書を1年間読んできてどうでしょうか?特徴、キーワードはいろいろあったと思いますが、迫害の時代に書かれた福音書です。苦しい中にも光・希望を見出した書、イエス様は神であると証しした書、子供や女性の活躍が書かれる書、対話の中で書かれた書、そのような印象を受けた福音書でした。

今日からはマタイ福音書をスタートします。この福音書にも大きな特徴がいくつかあります。一つは当時のユダヤ人向けに書かれたということです。ですからユダヤの人になじみ深かった、旧約聖書の引用が多くあります。旧約聖書・ユダヤ教と照らしながら読むと面白いのです。一番の特徴はなんといっても、「インマヌエル」「神われわれとともに」という言葉でしょう。マタイ福音書は1章からインマヌエルと始まり、28章20節も「いつもあなた方とともにいる」というインマヌエルで終わります。インマヌエルのサンドイッチになっている福音書です。「神様は私たちとともにいる」ということを一番に伝えているともいえる福音書です。もちろんその他にもテーマがあります。平和と和解、山上の説教で愛が語られるのが特徴です。ともに1年間、他の個所に寄り道をしながらですが、共に、スタートしましょう。

今日のキーワードはバプテスマです。聖書には「洗礼」と書いて「バプテスマ」とフリガナがふられています。バプテスマとはキリスト教の入信の儀式です。多くの教会で滴礼という方式で、水少しを頭に垂らすのですが、私たちの教会は全身を水に沈める方式でバプテスマを行います。一度水の中で死に、もう一度生き返るということ、そのことが新しい生活をスタートするということを象徴します。全身を一度水に沈めます。今日はそのための水をためてみましたので、興味のある方はどうぞ見てみてください。

バプテスマにはさまざまな方式がありますが、イエス・キリストが誰よりも大切な方だと信じる時、このバプテスマを受けます。

このバプテスマは天国への切符ではありません。これを受けると悪いことをしても神様に大目に見てもらえて、天国に行けるというものではありません。バプテスマは私たちが信仰の決断を神様から与えられた時に受けるものです。バプテスマを受けると罪が取り消されたり、その後罪を犯さなくなるわけではありません。バプテスマを受けてクリスチャンになっても相変わらず罪は犯し続けます。悪いことをします。要はバプテスマを受けても、受けなくても全員が罪人です。

しかし、バプテスマを受けて新しい生活をスタートすると、信仰の決断をした人は、イエス様を誰よりも大切だと告白した人は、同じ罪人でも違いがあると思います。バプテスマを受けた罪人はその罪を神様の前で素直に認め、悔い改める者となるのです。神様に向き合い、神様の前に自分の小ささを繰り返し知る、それがバプテスマを受けた者の生き方と言えるでしょう。

礼拝で毎週その決心を頂きます。もう人を傷つけずに生きよう、愛するように生きようとする。再スタートする。それがバプテスマを受けたクリスチャンの歩みです。同じ罪人ですが、悔い改めるのがクリスチャンと言えるでしょう。

私たちはまだバプテスマを受けていない人にこのバプテスマを受けてほしいと願っています。ひとりでも多くの人にこの生き方に加わってほしいと思っています。特に今日は子どもにこの生き方に加わってほしいと願っています。共に神様の前に立って生きてゆきたいと願っています。

神様はすべての人をその生き方に招いておられます。毎週の週報にもあるとおり、この生き方、バプテスマを希望される方は、どうぞ私までご相談ください。

 

 

さて今日の個所をお読みしましょう。今日は洗礼者ヨハネという人が登場します。この洗礼者ヨハネはヨハネによる福音書のヨハネとは全く別の人物です。この人はイエス様の先駆者、イエス様の道づくりをする人でした。

実はこのバプテスマスという習慣はユダヤ教に古くからありました。しかし、それは今の私たちのバプテスマ理解とは大きく違います。例えば今日出てくるファリサイ派にとってバプテスマとは、外国人がユダヤ教に入信・改宗する時に行われるものでした。外国人がユダヤ人になるために、けがれを取るために受けるものがバプテスマでした。両親がユダヤ人、生まれながらにユダヤ人だった人には、バプテスマを必要としませんでした。

ところがこのバプテスマのヨハネは、バプテスマにまったく新しい意味を持たせた人でした。ヨハネは外国人だけではなく、ユダヤ人も、みんなバプテスマを受けなさいと言ったのです。それは当時ではまったく新しい事でした。バプテスマは外国人が受けるもの、入信・改宗ときにけがれを取り払うものでした。しかしヨハネはユダヤ人も、バプテスマを受けなさいと言ったのでした。それが彼の大きな活動の一つです。

なぜヨハネは全員にバプテスマを勧めたのでしょうか。実は当時ユダヤの人々は自分たちにだけ神様の救いがある、恵みがあると考えていました。外国人に神様の恵みは及ばないと考えていました。アブラハムの子孫・血統である私たちにだけ、神様の助けがあると考えていたのです。選民思想という考えです。自分たちはアブラハムの血統だと自負をしていました。だからこそバプテスマを受けて自分たちの仲間になれば神様の助けがあると考えたのです。

そんな自負を持つユダヤ人の人々に、ヨハネは言いました。9節「神はアブラハムなんぞ石ころからでもつくのだ」と。自分たちはアブラハムの子孫だと自負を持つ人々に、アブラハムを石ころからできたというのです。それほど強く、自分だけを神様が助けてくれる、そのように、おごりたかぶるのをやめるなさいと語ったのです。

ヨハネがすべての人へのバプテスマを広めようとしたのは「自分はユダヤ人だから大丈夫」と思っている人々に、必要ないと思っている人に、もう一度注意を促すため、神様の等しい愛に気づかせるため、すべての人々へのバプテスマを呼びかけたのです。異邦人もユダヤ人も関係ありません。すべての人が神様の恵みの中で、創造された人間です。すべての人に同じように神様の恵みがあります。神の前に平等で、神様の愛は全員に等しく注ぐのです。しかし、当時のユダヤの人々はこのことを忘れてしまっていました。自分たちだけに神の恵みがある、自分たち以外には無いと思ってしまったのです。

ヨハネが厳しく非難していることはこのことです。自分だけが救われると考えること、まさにそのことが罪だということです。「俺様は大丈夫」と思うそこに罪があるということです。だからこそ全員が、ユダヤ人もバプテスマを受けるべきだというのです。

そしてバプテスマは罪を消すためのものではありません。ヨハネはバプテスマを受けて、その罪を、差別を、悔い改めて、新しい生活をスタートしなさい、再スタートしなさいと語っています。それが8節、実を結びなさいということです。

バプテスマを受けたから、神様に助けてもらえるのではありません。バプテスマを受けると神様に怒られないのではありません。ヨハネはそのように自分は大丈夫だと思ってしまうことを「罪」と言います。そして罪を悔い改めるために全員がバプテスマを受けなさいと言ったのです。全員に恵みがあり、全員に罪がある。だから全員が神様にもう一度心を向ける、再スタートをしよう。そのために全員がバプテスマを受けなさいと語ったのです。

バプテスマを受けるとは日々の悔い改めをスタートするということを意味します。すべての人に神の愛が等しく注ぐこと、すべての人が罪を犯し、人を傷つけてしまうこと、そのことを知り、自分が正しいと思って見下すのをやめる、低みに行くこと、それがバプテスマを受けた者の生き方となります。バプテスマを受ける、そこから良い実を結ぶ生活をスタートさせるのです。

12節には殻という言葉がでてきます。殻とはもみ殻、麦の実をとった部分です。人間は弱い者、もみ殻です。たとえバプテスマを受けても、すべての人は罪人です。神様が私たちの内側を見れば、すべての人がもみ殻のように燃やされなくてはならないでしょう。そのことにおいてはバプテスマを受けようが受けまいが関係ありません。たとえバプテスマを受けても、どの人も等しく神様の赦しに頼らざるをえないのです。それがヨハネの語ったことでした。

神様はクリスチャンも含めすべての人に生き方を変えるように求めています。悔い改め、具体的に実のある生き方となるように求められています。今日そのスタートを切るように求めておられます。バプテスマはスタートです。

私たちは今週もそれぞれに生活をします。私たちはもみ殻です。でもバプテスマを受けた者たちは、信仰のスタートを切った者たちは悔い改めながら歩みます。もみ殻だけど、実を結ぶ生き方を願い、今週を歩みましょう。

実は聖書を読み進めると、この後イエス様もヨハネの洗礼を受けたとあります。きっとバプテスマに共感したのでしょう。自分を誇るのではなく、悔い改め、神に向けて再スタートする、そのバプテスマをイエス様も受けたのです。イエス様もそこから地上の活動をスタートしたのです。

イエス様もすべての人がバプテスマを受けるように願っています。そしてご自身もこのバプテスマを受けた者の歩みに加わって下さいます。神は私たちと共にいて下さいます。今日もこの主の礼拝から1週間をスタートしましょう。お祈りいたします。