【全文】「クリスマスの決心」マタイ1章18節~25節

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

マタイによる福音書11章20~21節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も子どもたちと共に礼拝をしましょう。

今年を振り返って皆さんは、どのような1年だったでしょうか。全員がコロナに振り回された1年だったわけですが、その中で一人一人がいろいろな決心・決断を迫られる1年だったのではないでしょうか。

県からは外出自粛要請、営業自粛要請、時短要請、テレワークの要請。様々な要請が出されました。要請には強制力がなく、あくまで“それぞれの決断”を促すものです。やめた方がいいが、強制ではない、自分で決めてねと言われたのです。

GOTOトラベルも各都道府県ごとに、やるかどうか決めてね。そして、おそらくこの後ワクチンを打つかどうかも自分で決めてねとなるでしょう。全部、全部、自分で決めることが求められるのです。

決定したことについて誰も責任はとれないから、自分で決めて下さいとなるのでしょう。ですから私たちは旅行に行くか、旅行をキャンセルするかみんな自分で決めました。となりの中学が修学旅行にいったけど、自分たちで考え、行かないと決断した学校もありました。誰もが正解のわからない中で、様々な決断をした1年でした。

特に医療についても多くの決断を迫られています。誰を、どのように検査し、どのような場所に入院をさせるか、あるいは自宅に待機させるのか。医療機関では、命に係わる大きな決断を、それぞれがしなければならない状況です。

教会も同じでした。大きな決断をしました。礼拝をオンラインにするという、これまでの常識では考えられない決断をしたのです。いままで教会は、集まることが何よりも大事だと教えてきました。集まらなければ信仰は継続できないのだと教えてきました。しかし突然、教会には集まらないでくださいと言うようになったのです。

礼拝で握手しないでください、礼拝で歌わないでください、親しく隣に座らないで離れて座ってください、食事をしないでください。そして集まらないでください。教会は今までとはまるで違うことを言いました。

感染がさらに拡大すれば再びそう決めるかもしれません。何が神様の示す道か、今までの常識を超えて決断する必要に迫られました。教会にとって究極ともいえる選択を迫られました。逃げることはできなかったのです。

私たちはコロナ禍の中で、祈ってそう決めました。今までの常識、いままでと言ってることは違うけれど、神はいまどのように思うかということ。命を守るということを第一に考え、決断をしました。美しい決断ではありません。ひとつひとつ、迷って迷って、迷いに迷って決断しました。決断がぶれることも何度もありました。本日の祝会も、できるかなという迷いがあり、やってみようという決断があり、やはりやめようという決断をする経緯で、中止となりました。

私たちはこれからもまだまだ決断を迫られてゆくでしょう。いままで大切にしてきたものを、続けるのか、あきらめるのか、また新しい決断が求められるでしょう。私たちはその時々、祈り、最善と思う決断を神様の下で、神様の前でするしかありません。

神様がこのコロナ禍を起こしたのではありません。神様が私たちに試練を与えるためにこのコロナを起こしたのではありません。神様は最後にはきっと良いものを私たちに準備してくれているはずです。そう信じて、待っています。

私たちは、神の前で祈り、それまでの常識を超えて、決断しました。誰かが決めてくれたら楽でしたが、そうしませんでした。これからも自分で決断することが続くでしょう。そして決断するということは教会も、そして一人一人の人生でも起こります。私たちはこれからも、様々なことを祈って自分で決断してゆかなければならないでしょう。

コロナ禍であっても、そうでなくてもそれは同じです。人生の中で決断が迫られるときがあります。その時私たちは、神様に祈って決断をしたいのです。必ずこの先に神様が良いものを準備してくださっていると信じて、決断をしたいのです。

今日の聖書個所で私たちは難しい決断の前に置かれた一人の人を見つけます。彼は神に祈り、良いものを確信し、決断しました。そしてそこにはイエス・キリストという希望が与えられたのです。祈って決める、そしてそこに必ず良いものが与えられます。今日、このクリスマス、その希望を皆さんと確認したいのです。

今日の聖書の個所をお読みしましょう。クリスマスに聖書の中で注目をされるのは、マリアや羊飼いや、博士です。しかし今日の個所はヨセフが描かれています。今日私たちが目を留めるのは、私たちと同じように難しい決断を迫られたヨセフです。彼は婚約者が妊娠をしたのです。まだ夫婦としての関係を持つ前に、妻が妊娠をし、迷い、決断するヨセフが描かれています。

婚約者が他の人の子を妊娠した場合、当時の律法では、当時の常識では、いえ現代にあっても、その婚約を破棄するのが常識でした。彼は当時の常識に従って、19節「縁を切ろうと決心した」のです。

しかしある夜、彼に天使が現れ21節「聖霊によって妊娠したのだから、迎え入れ、そしてイエスと名付けなさい」と告げるのです。そして24節ヨセフは目が覚めて言われたとおりにしたとあります。

私はこの二度目の決心、目覚めてから、すぐに決心が起こったのか、本当はもっとこの決心に時間がかかったのではないかと思っています。この常識を超えた決心を夢で見て、目覚めてすぐできるとは思えません。

この結婚は家族や親戚も猛反対をしたでしょう。神様がもし本当に、マリアを妊娠させたのだとしても、あと数か月、結婚まで待ってくれれば、何の問題もない事でした。でも聖霊は、結婚待ちませんでした。もっとも都合の悪いタイミングでそれが起こり、突然に決断が迫られたのです。

婚約者を迎え入れるとは不倫の可能性がある人と結婚をするということです。その子どもを名付けるとは、その子を自分の子どもであると認知し、名付け親、育ての親となるということを示します。彼は大いに悩んだのです。彼はそこで祈ったでしょう。そして彼には常識を超えた、驚くべき決心が、決断が与えられたのです。それは聖霊の言うままに、受け入れる、名付ける、この子の親になるということでした。離縁の決心を変えたのです。

男性目線と言われるかもしれませんが、ヨセフはマリアとは状況が違います。マリアは自らが妊娠をするということを告げられるのです。「この身になりますように」と彼女の受け入れる信仰は実に素晴らしいものです。マリアの妊娠は神様の業です。それから逃れることも、何も決心することもありません。それを受け入れることが求められました。

しかし、ヨセフに求められたことは、マリアに求められたこととは違います。彼はマリアを受け入れない事も、殺すことも、自分が逃げ出すこともできたのです。逃げ道や別の方法は無数にあったのです。その中で神様はヨセフに選ばせようとしています。彼に迎え入れ、名付けるということを選ばせようとしているのです。彼は大いに迷いました。何日も迷いました。神様の前に決断を迫られ、ある時ようやく決断ができたのでしょう。

その決心はぶれています。一度は離縁しようと決心しましたが、二度目の決心は受け入れ、親になるということを決心したのです。常識を超えた決断をしたのです。

私はこのヨセフ、素晴らしい決断ができた人として見るだけではなく、彼がきっとこの決断に相当の迷いを持ったのではないかと想像します。今さまざまな決断を迷いながら選ぶ私はそのように感じます。

受け入れがい事実、逃げ出したくなるような事実、一度決めたこと、今まで常識だったこと、それを神様の前に問われたのです。そしてヨセフは神様の前で、神の示すままの決断をしました。受け入れ、親となる決断をしたのです。迷いながらも祈って決めたと言えるでしょう。

もし彼が神なしに決断したとしたら、常識や憶測や自分の都合に基づいて決断したとしたら、最初の決心の通りでした。マリアは生きていたのか、イエスは生まれていたのかもわかりません。キリストは生まれなかったかもしれないのです。彼の祈り、迷い、決断がこの誕生の背景にはあるのです。

私たちにも日々、何かを決めることが迫られています。このコロナの時、特に多くの機会でそれを迫られています。しかもヨセフのように、こうしなさいとは神様の声がはっきり聞こえることは少ないものです。

それでも私たち一人一人は、教会は神様の声を聞いて決断をしたいのです。祈って決断したいのです。私たちの都合・希望・常識で決断するのではありません。何が神が示す道なのかを考え、祈って決めたいのです。聖書を読んで決めたいのです。礼拝して決めたいのです。誰かに決めてもらうのは楽だけど神様の前で自分で決めたいのです。時にそれは常識を超える決断となるでしょう。

でも私たちはその先に必ず良いものが生まれると信じて決断をします。イエス・キリストの誕生がこのヨセフの決断の先にあったように、私たちが迷い、祈り、決心することの先に神様の大きな希望が必ずあるということを信じて歩みたいのです。

そして聖書は神への祈りなしに決める時、ヨセフの一度目の決心も描いています。神なしの決心は命が奪われる決心です。関係が奪われる決心です。その決心は変えていいのです。一晩で変えていいのです。神様に新しいことが示されたら、すぐに変わっていいのです。

コロナはしばらく続きます。もうしばらく一人一人が決断を迫られるでしょう。日々の決断、そして信仰の決断も迫られるでしょう。その決心をこれからも祈って決めてゆきましょう。その先に希望があると信じて決心しましょう。今までの常識とは違う決断を、神様の前に祈って、神の導きがあることを信じて、希望をもって決めてゆきましょう。

イエス・キリストの誕生が待っています。私たちが神様の前でする決断は必ず希望につながってと信じて歩みだしましょう。お祈りします。