「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」
マタイ17章4節
一人登山のメリットは自分のペースで歩けることです。一人なら行きたい時に行け、好きなときに立ち止まり、中止できます。反対に一人登山は危険という注意もありました。ケガや遭難は特に危険です。また経験の豊富な人と一緒に登山した方が、上達が早いともありました。私はこれがYouTubeでの礼拝に重なる気がしました。自分の体調を心配せず、少し休んだり、一時停止することもできます。他の教会の礼拝を見ることも可能です。一方YouTube礼拝では私が参加していなくても、誰もそのことはわかりません。経験のある人と一緒の方がよいということは信仰でもまったく同じです。
私たちは神様がまた教会に私たちを集めて下さる日を待ちましょう。神様は必ずまた私たちを招いてくださいます。
今日の聖書をお読みしましょう。イエス様はよく一人登山をしました。それは静かに自分のペースで祈ることができる大切な時でした。今日はみんなで登ります。しかしその山の山頂へはイエス様が連れていってくださるのです。礼拝も同じです。今日それぞれの場所の礼拝も、集うことができる日の礼拝も、そこへはイエス様が連れて来てくれくださるのです。
山頂でペテロは「主よ、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです」と言います。まったくそうです!私がではなく「私たちが」とあります。集まって主を共に礼拝することがどれほど素晴らしい事か、今の私たちは本当によくわかります。私たちももし集えたらなんと素晴らしいことでしょう。
ペテロは仮小屋を建てようとしました。しかしその幕屋は必要ありません。神様は一部の人しか行けない場所に留まるのではありません。私たちに触れて、高いところから地上に一緒に降りてきてくださるお方です。
イエス様は私たちと共にその山を下りて下さるお方です。そしてイエス様は山を降りながら復活と十字架について弟子たちに語りかけています。山を下ったのは、私たちと共にいるのだという事と同時に、栄光から十字架への下り坂を意味しています。山頂の栄光は十字架へと変わってゆくのです。
神は人を礼拝に招き、人として共に地上に下り、苦しみ小さくされた人に向けて歩むお方だということがこの物語の中には詰められています。私たちは今日もそれぞれの場所から礼拝をしています。早く集えることを願っています。共にイエス様から礼拝へと招かれ、共に山頂に連れてこられ、共にみ言葉を聞き、「私たちがここにいるのは、すばらしいことです」そう共に言える日を祈りましょう。