「低みに立つ十字架」マタイ20章20節~28節

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」    マタイ20章26~27節

 

聖書には「仕える」という言葉が出てきます。「仕える」とはどんなことでしょうか。イエス様は仕えられるのではなく、仕える者になるために来たと言います。それは高くあげられるためのではなく、低みに立つために来たのだと言うことがきるでしょう。

その低みの一番下のあるのが十字架です。人々に仕える、最も低い場所に立つという出来事が、十字架という出来事だったのです。私は今日の個所から、救い主イエス様がどこに立とうとするのかを見てゆきたいと思います。

今日の物語でまず登場するのは、ゼベダイの息子たちの母です。彼女は謙虚な様子に見えます。20節、まずひれ伏して登場します。そして自分の子どもを要職につけて欲しいと願います。それを聞いて弟子たちは怒ります。自分も欲しい権力が奪われそうになったからです。

この弟子たちに対してイエス様は自分は王にならないということ、そして自分は仕える者になる、もっとも低い場所に身を置くということを語ります。イエス様は王になることを選ばず、無残に十字架にかかるということを選びました。十字架を選んだということは、自分の身を最も低い場所に置くという選びでした。

そしてイエス様は弟子たちに言います。26~27節「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」高い地位を得たいなら、表面的にでもまずは謙虚な、低姿勢を装いなさいということではありません。

仕えるということの中心は十字架にかかるということです。地上で最も低い場所、十字架にいたのがイエス様です。この後のより大きな栄光を受けるため、偉大になるため、高い地位になるために十字架にかかったのではありません。ただ低みに立つことを選んだのが、十字架だったのです。

そして自分の子を大いなる者にして欲しいと願った、ゼベダイの母は十字架を目撃したました。イエスが偉大になるのではなく、小さく低く死んでいった姿を見たのです。その十字架を目撃した彼女は、人々を従えるのではなく、人々に仕えてゆく人になったのではないかと思います。私たちも今、受難節をいただいています。私たちもゼベダイの母のように十字架を目撃したいのです。

受難節、イエス様の低さを知ります。イエス様が仕える者となったこと知ります。イエス様が他者に仕える方だと知ります。私たちもそのような歩みを始めましょう。来週から集うことができることに感謝します。教会の中でも、そしてそれぞれの場所でも、私たちは互いに仕えあいましょう。