【全文】「低みに立つ十字架」マタイ20章20節~28節

みなさん、おはようございます。今日も離れた場所からですが、共に礼拝をしましょう。来週から集って礼拝をする予定です。共に礼拝できることを楽しみにしつつ、また今日も一緒に礼拝をしましょう。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も一緒に礼拝をしましょう。

私は公正・平等な選挙改革にとりくむプロジェクト(通称:とりプロ)という市民団体に加わっています。様々な選挙制度の問題点について法律の改革、特に公職選挙法の改革を訴える市民団体です。

選挙の時、候補者は「清き1票を」と大声で訴え、一生懸命、握手し、頭を下げます。「私は国民のために頑張ります」「国民の声を政治に反映させます」とアピールします。でも当選後どうでしょうか。国民のために働いているのかどうか。どうやらすべての政治家が国民の為に働いているというわけではなさそうです。

選挙期間中の姿に騙されてしまったかもしれません。謙虚に、あんなに深々と頭を下げて、一人一人の目を見て握手したあの人が、議員になるとまるで別人のようです。国民の質問に答えなかったり、官僚に責任を押し付けたりします。そこには言葉だけの、うわべだけの謙虚さが当たり前のように存在します。当選して議員になるまでは、選挙の期間だけは謙虚で低姿勢でいる。当選したら態度が変わるような、偽りの謙虚さは本当に必要ないと思います。

聖書にもよく「仕える」という言葉が出てきます。「仕える」とはどんなことでしょうか。イエス様は仕えられるのではなく、仕える者になるために来たと言います。それは高くあげられるためのではなく、低みに立つために来たのだと言うことがきるでしょう。ちやほやされるために来たのではなく、苦しみや悲しみを持った人の元に来たということです。

その低みの一番下のあるのが十字架です。人々に仕える、最も低い場所に立つという出来事が、十字架という出来事だったのです。私は今日の個所から、救い主イエス様がどこに立とうとするのかを見てゆきたいと思います。そして低みに身を置き、生きたお方だということを見つけたいのです。そして私たちもこの話から、人に低く、他者に仕えて生きようと促されていることを受け取ってゆきたいと思います。今日の聖書の個所をお読みしましょう。

 

今日の聖書個所、当時イスラエルを政治的に支配していたのはローマ帝国です。ローマ皇帝は人々の頂点に立っていました。世界の人々の上に君臨していたのです。そのピラミッド構造の下にいた人々、底辺にいた人々は経済的に搾り取られていく対象でした。そして支配する側、される側に大きく分断し、差別が広がる社会でした。人々はその社会の変化を求めていたでしょう。だからこそ新しい王を求めました。イエス様に新しい王様になってほしいという期待があったのです。

今日の物語でまず登場するのは、ゼベダイの息子たちの母です。彼女はイエス様が王になった時、自分のこどもを左と右、いわば要職として地位を与えて欲しいと願いました。彼女をどう感じるでしょうか。権力を欲しているのでしょうか。自分の子がかわいいあまり人を押しのけようとしているのでしょうか。あるいは権力の欲しい息子たちに利用されているのかもしれません。

彼女は謙虚な様子に見えます。20節、まずひれ伏して登場します。自分からぶしつけに願いを言うことはありません。イエス様に21節「何が望みか」と聞かれるまで深々と頭を下げ続けるのです。そして母はあなたが王になった時、自分の子どもを要職につけて欲しいと願います。

他の弟子たちはこれを聞いて怒ったとあります。やはりみんな地位と権力が欲しかったのでしょう。もしイエス様が王になったら、自分たちは支配する側として、地位と利権を持つことができると考えたのです。それを奪われそうになって十人は怒っているのです。

この弟子たちに対してイエス様は、自分は王にならないということ、そして自分は仕える者になる、もっと低い場所に身を置くということを語っています。イエス様は王になることを選びません。それは地上の権力において、自分が支配される側から、支配する側になろう、下剋上を考えたのではないということです。

イエス様は王になって支配するのではなく、無残に十字架にかかるということを選びました。十字架を選んだということは、自分の身を最も低い場所に置くという選びでした。イエス様は自らの地位や権力には一切興味を示さず、徹底的に虐げられる民衆の側に立とうとしました。人々を支配し、十字架に架ける側ではなく、十字架に架けられる側にいることを選んだのです。

イエス様は弟子たちに22節「杯を飲むことができるか」と聞きます。杯を飲むとは十字架に架けられてゆく、苦難を受けてゆくという意味です。王になり権力を握るのではなく、苦難の道を歩むことができるかと弟子たちに聞いています。

弟子たちは簡潔に「できます」と応えています。でも私たちは十字架の物語を知っています。この後、12人の弟子たちはすべてイエス様が十字架にかかろうとする時に、逃げ出してしまいました。杯を飲むことのできた者は一人もいなかったのです。

そして25節以降で改めてこう言います。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と。これはおそらくローマの支配について、地上の支配者たちについて言っているでしょう。彼らは自分の利益のために好き勝手に権力を使っています。

そしてイエス様は弟子たちに言います。26~27節「あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」

高い地位を得たいなら、表面的にでもまずは謙虚な、低姿勢を装いなさいということではありません。それでは現代の政治家と同じでしょう。後から上になりたいから今、下に身を置いておくということではありません。ここで譲った方が、後々大きいものが待っている。だから今は譲っておきなさいという計算をしているのではありません。イエス様はただ、仕えられるためではなく仕えるために来たのだとはっきり言います。

イエス様は後にも先にも地上で偉くなるため、高い地位を得るためにきたのではないということです。むしろ逆です。小さくなり、低くなるために来た。地上に来られたのです。仕えさせるためではなく、仕えるために来た、それがイエス様です。

これを低みに立つと言うことができるでしょう。そしてその中心が十字架にかかるということです。地上で最も低い場所、十字架にいたのがイエス様です。この後のより大きな栄光を受けるため、偉大になるため、高い地位になるために十字架にかかったのではありません。ただ低みに立つことを、そこに居続けることを選んだのが、十字架なのです。復活して栄光を受けるために、十字架があったのではありません。ただ低みを選び、そこの神がおられることを示すためにイエスは来られたのです。

今日もうひとつ注目しておきたいのは、ゼベダイの息子たちの母についてです。彼女は息子の地位と権力を求めた人として理解されるかもしれませんが、実はもう一度登場する場面があります。

それはイエス様の十字架の場面です。ゼベダイの母は最期の十字架を目撃したと記録される3人の女性の一人でした。彼女が大いなる者になってほしいと願った自分の子どもは、そこにはいません。十字架を前に逃げてしまったのです。栄光とは程遠い神の姿を見ようとはしませんでした。結局母だけがイエス様に従い続け、十字架を見たのです。

ゼベダイの子らの母は、自分の子を大いなる者にして欲しいと願ったあの人は、いま地上で、最も残酷な刑を受けて、低く小さく死のうとしている、十字架を目撃したのです。その生き様、死にざまを直接見たのです。イエスが偉大になるのではなく、小さく低く死んでいった姿を見たのです。

どうでしょうか。私はきっと彼女はこの後熱心にイエス様に仕える者となっただろうと想像します。自分の地位ではなく、低みに、苦しみに身を置くことを選んだのではないでしょうか。十字架を目撃した者として彼女は、人々を従えるのではなく、人々に仕えてゆく人になったのではないかと思うのです。

私たちも今、受難節をいただいています。私たちもゼベダイの母のように十字架を目撃したいのです。始めは地位や偉大さを求めていたかもしれません。大きさと成長を求めていたかもしれません。でもイエス様がどんなお方か、何を目指したお方か、それを十字架によって知ったのがゼベダイの子らの母です。

彼女は私たちと同じと言えるでしょう。聖書を通じて十字架を目撃している私たちも、イエス様が低く、小さい場所に身を置いたということを知りたいのです。受難節、イエス様の低さを知ります。イエス様が仕える者となったこと知ります。イエス様が他者に仕える方だと知ります。私たちもそのような歩みを始めましょう。

来週から集うことができることに感謝します。教会の中でも、そしてそれぞれの場所でも、私たちは互いにに仕えあいましょう。それはうわべだけの謙遜や、仲良しごっこではありません。神を愛し、隣人を愛する。神に仕え、隣人に仕える。私たちはそのような共同体をまた来週から作ってゆきましょう。

 

そしてもちろん、今皆さんがいる、私たちが生きるそれぞれの場所でも同じです。それぞれの場所からも神を愛し、隣人を愛する。神に仕え、隣人に仕える。私たちが派遣された場所でまた、1週間をそのように歩みましょう。次週に皆さんにお会いできるのを楽しみにしています。次に皆さんに仕えて、お会いできるのを楽しみにしています。お祈りいたします。