【全文】「平和を造る者になりなさい」マタイによる福音書5章9節

 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

マタイによる福音書5章9節

 

 

 みなさん、おはようございます。今日もこうして集うことができること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら、全員で一緒に礼拝をしてゆきましょう。私たちは6月・7月と平和をテーマに聖書を読んでいます。特に今日は平塚大空襲を覚えたいと思います。

1945年7月16日深夜、当時最新の爆撃機B29 が133機、平塚を爆撃しました。これによって多くの人が命を落としました。76年前の7月ですが、私たちのいる場所がまさに戦場だったということ忘れないでいたいと思います。

B29は現在のまちかど広場を中心に、まずその外側を大きく円を描いて爆撃しました。そのあと円の中に集中的に爆撃をしたそうです。市民は炎に囲まれ逃げ出すことのできないまま爆撃を受けることになりました。それは無差別虐殺でした。今の総合公園、横浜タイヤのあたりが海軍の工場で、軍需工場が狙われのだと言います。しかしこの空爆は工場を狙ったのではありません。一般市民を狙って爆撃が行われました。その被害をみるとわかります。住宅は57%が被害を受けた一方、工場の被害は25%でした。住宅地にこそ被害が多かった、市民が狙われた、市民が空爆の対象とされたのです。当時の平塚市の人口5万人程度に対して40万発以上の爆弾が投下されました。

その様子の証言集が博物館で販売されています。掲示スペースにも置いてありますのでご覧ください。その証言によれば、爆撃された平塚は生き地獄だったと証言されています。爆撃は現在の教会の敷地の手前まででした。市中心部にあったほとんどの病院は焼けてしまい、残ったのはこの教会の向かい側にあった済生会病院で、そこには入りきれないほど多くのけが人が運ばれたそうです。もちろん十分な処置は行われなかったでしょう。たくさんのこどもが死んだという証言もされていました。

戦争は国と国の戦い、軍人と軍人の戦いと思われています。しかし実際の戦争はそうではないことをよく表していると感じました。戦争は多くの一般人を巻き込み、市民を対象としながら行われます。空爆は、対象が軍事施設だという建前で始まります。しかし必ず一般市民が対象になります。空爆の中身は結局、市民虐殺です。このような空爆は世界中でいまも行われています。シリア、ミャンマー、パレスチナで繰り返されています。そのどれを見ても建前は軍事施設を狙ったということですが、結局標的は一般市民、弱い立場の人たちです。

戦争が終わった後はどうなるのでしょうか。命は一度奪われたら取り戻すことができません。多くの人は体の一部を失ったり、心が傷ついたまま、生きなければならないのです。早く戦争を終わらせるため、早く平和を実現するために、やむをえず空襲があったのでしょうか。ある証言はもう一か月早く戦争をやめていたら悲惨な空襲はなかったはずだと証言しています。そうです。あと一か月降伏が早ければ広島も、長崎も、平塚も原爆・空襲を受けることはありませんでした。だから原爆と空襲によってやっと平和が実現したのでしょうか。

しかし日本は戦争をやめることができませんでした。終戦が遅れたのは国体、天皇を守るためと言われます。天皇を神とするこの国には必ず神風が吹く、神が戦争に負けるわけがないと信じ、この戦争を続けたのでした。

戦争をもっと早く終わらせる方法、それは空襲や原爆以外の方法はなかったのでしょうか。やはり原爆・空爆によって戦争が終わり、平和が訪れたのでしょうか。その平和とはどんな平和でしょうか。空爆によって実現した平和とは本当の平和なのでしょうか。殺され、傷つき、平和が実現したのでしょうか。私は空爆では平和は実現できないと思います。平和を実現するための空爆はいらないと思います。

戦争を終わらせること、平和を実現すること。それは本当に難しいことです。しかし私たち一人一人が平和を大切にし、訴えてゆくことが私たちの世界の平和につながると思います。私たちの目の前で起きた出来事を忘れずに、空襲・戦争・軍事力・暴力によっては決して平和は実現しないのだということを、一人一人が考えてゆくことそれが大切だと思います。

聖書は「平和を実現する者は幸いだ」と言っています。この平和とは何か、実現するとはどんなことかを考えてゆきたいと思います。

 

 

 今日の聖書を読みましょう。今日の箇所は山上の説教と呼ばれる箇所です。ルカによる福音書にも似た箇所がありますが、今日の箇所「平和を実現する人は幸いである」はルカ福音書からは抜けています。

この個所はマタイの福音書のグループが考えたことをイエス様の言葉として聖書に加えたのではないかと考えられています。そのような個所は聖書にいくつもあります。

イエス様の十字架の後、ユダヤとローマの間には激しい戦争が起きました。ユダヤも徹底抗戦をしました。しかしマタイによる福音書を書いたグループは戦うことを選びませんでした。逃げだしたのです。その後ローマ軍によってユダヤの神殿は徹底的に破壊され、市民は虐殺されました。マタイによる福音書を書いた人々は、その戦争から逃げてきた難民のグループだったのではないかと言われています。

マタイたちは戦火をくぐり抜け、ユダヤから逃げだした人々です。空爆から逃げ惑う市民を想像させます。マタイたちは平和を求めて逃げまどったのです。そして彼らは戦うことを選ばない人たちでした。非暴力、非武装を貫いて逃げる人々でした。ですからマタイ福音書にはほかの福音書よりも特別、平和や和解が語られています。

平和とは彼らの何よりも大切にした願いでした。そして彼らは暴力や戦争ではなく、非暴力を貫くことが、神様から祝福をいただくのだと考えました。殺し合わない選択を神は祝福するのだと考えました。そのように神様・平和を理解したのです。そしてそれをイエス様の言葉として、聖書に記載したのです。そのような非暴力と平和の願いが込められた言葉です。

ここに「平和を造り出す者」とありますが、実は当時、ローマ皇帝が「平和を造り出す者」と呼ばれていました。ローマの軍事力によって世界に平和がもたらされているという意味です。ローマ皇帝は軍事力によってすでに「平和を造り出すもの」だったのです。

「神の子」も同じです。当時ローマ皇帝が「神の子」と呼ばれていました。神とはどんな神かというと、戦争の神です。敵を踏みつけにしてくれる神です。神の子とはその戦争の神様の子、つまりローマ皇帝という意味でした。

ですから今日の箇所は明らかにローマ皇帝を意識して、言葉を選び、書かれています。そしてここには皮肉が込められています。地上ではローマ皇帝が、戦争の神の子、軍事力で平和を造り出すものと言われている。

しかし私たちは皇帝のように軍事力・暴力によって「平和を実現するもの」にはならないという皮肉です。平和はローマ皇帝、軍事力、支配によって実現するものではないということを宣言しているのです。ローマの軍事力による平和は本当の平和ではないと言っているのです。彼らは自らの戦争体験をもとに証言をしているのです。

ではマタイはどのような意味で「平和を造る者」と言ったのでしょうか。マタイたちは、皇帝ではなく、私たち一人一人が平和を実現する者となるのだと考えました。戦争を経験した、小さな難民集団が、私たちが「平和を造る」と考えたのです。それは軍事力ではなく、一人一人が隣人を愛することで平和を造るのだと考えたのです。

戦火をくぐり逃げ、生き延びた難民が、平和は非暴力によって実現するのだと証言しています。平和は非暴力の行動をとる者たち、私たち一人一人から生み出されていくのだと証言をしているのです。

そして神の子、それは戦争の神の子という意味ではありません。神の子とは、私たちの信仰する聖書の神、平和の神の、その子という意味です。平和を造り出す者、非暴力を選ぶ者こそが「平和の神の子ども」なのだ、そう証言をしたのです。

ここには戦わない平和、誰かに与えられるのではなく一人一人が実現させ造り出してゆく、平和が語られています。神は平和を願っていること、そしてその平和の担い手は皇帝ではなく、支配者ではなく、私たちなのだ、私たちこそ平和のために用いられる「神の子」なのだと語っています。

私にはこの言葉が戦争を体験したマタイたちの平和宣言に聞こえます。神は戦争ではなく平和を願われているのだ。そして平和は軍事力や支配からではなく、私たち一人一人から生まれてくるのだ。一人一人の非暴力運動、戦争への反対によって生まれてくるものだと証言をしている、そのように聞こえます。

戦争を目のあたりにした人々の平和への願い、証言、それが今日の箇所です。この証言はきっと平塚大空襲の証言と重なるでしょう。平和のために空爆があったのではないのです。空爆・軍事力では平和は造れないのです。暴力によっては神の子となることはできないのです。平和を実現するのは、平和の神の子、私たち一人一人の平和への願い、祈りなのです。聖書はこのように私たちを平和へと導いているのです。

平和への願い、非暴力の願いはきっと神様が祝福してくださるでしょう。そのことを神様は「幸いだ」としてくださるでしょう。

平和の神様は、平和を祈る人々には必ず平和を与えるお方です。平和の神は、それを祈る者を自分の子、神の子とするお方です。神様は平和のために祈り、造り出すものに、幸いだと宣言なさるお方です。

私たちはそのみ言葉を聞きましょう。聖書から平和を実現してゆく力をいただいてゆきましょう。一人一人が平和を求めましょう。一人一人が祈り、働きいてゆきましょう。お祈りいたします。