イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
マタイによる福音書8章10節
6月から7月沖縄、戦争責任、空襲、ミャンマーと平和について聖書から考えてきました。平和ということについて、私たちにできることは多くありますが、祈ることもとても大事なことです。私たちは平和を実現するためには決定的に外側、神様からの力が必要です。暴力の誘惑は常に人間を襲います。だからこそ平和を祈り続ける、ずっと祈り続けることが大事です。共に祈り続けてゆきましょう。
そして私たちは、自分の周りの平和ばかりに目を向けがちです。平和の祈りを世界に広げてゆきたいのです。今日読むのは、熱心な祈りの姿です。平和というテーマの宣教の最後ですが、平和を祈ることについて考え、終えようと思います。
今日の箇所。似た記事はルカとヨハネにもあります。ヨハネでは苦しんでいるのは、百人隊長の「息子」だとあります。激しく痛む子どもを目の前にして、親は子どもが助かるためならどんなことでもするでしょう。どんな宗教にでも救いを求めるはずです。必死に嘆願した百人隊長の気持ちが想像できます。一方マタイでは「僕」とあります。百人隊長とどういう関係なのかわかりません。しかし、百人隊長の態度から関係性がわかります。この「僕」は百人隊長にとってかけがえのない、大切な存在だったのです。恥も外聞も捨てて、公衆の面前で、新しい宗教者イエスにその救いを5節「懇願する」ほど大切だと思える存在だったのです。そしてここにある懇願するという言葉は「祈る」という意味のある言葉です。
よく見ると百人隊長の8節9節の言葉は懇願というよりも祈りです。百人隊長はイエス様に出会い、祈ったのです。大勢の群衆が見ている前で、社会的地位のある人がイエス様に祈るのです。イエス様は10節、それに感心したとあります。イエス様はたったの一人の「僕」のためにここまで熱心に祈る隊長の祈りに驚いたのです。
イエス様は百人隊長が僕の痛みを自分の痛みのように感じ、助けてほしい、平安を与えてほしいと熱心に祈る姿に共感をしたのではないでしょうか。家族でもない他者の痛みに共感し、熱心に救いを求め祈ること、そして救いを探し回っていること、そのことに感心したのです。百人隊長は平和を祈ったのです。忘れられてしまう命、あきらめてしまうような命、そんな身分の僕の平和のために祈ったのです。
私もこの百人隊長のような祈りたいと思わされます。私も自分や家族、親戚だけではなく、もっと広い世界のために、祈ってゆきたいのです。私は世界にある命、苦しむ命、暴力と抑圧の中にある命のために、親身に祈りたいのです。神様に平和を祈る時、きっと神様はそこに目をとめてくださるはずです。私たちも神様が平和のために、命のためにそんなに祈っているかと驚くほどの祈り、そんな平和の祈りをささげてゆきましょう。お祈りします。
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