【全文】『誰がいないか吟味する晩餐』Ⅰコリント11章17節~34節

 

だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章28節

 

みなさん、おはようございます。今日も共にそれぞれの場所から礼拝できること、感謝です。共に礼拝しましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。それぞれの場所で多くの方は、こどもの声が聞こえない場所で礼拝をされているでしょう。つくづくそれぞれの場所での礼拝、オンライン礼拝は誰がいるのか、また誰がいないのかがわからない礼拝です。早く集い、互いを感じながら集えることを願っています。

私たちは今、礼典「主の晩餐」をテーマとして宣教を続けています。今日は2回目です。前回私たちは、十字架を、イエス様を忘れてしまう、ふさわしくない者だけれども、この主の晩餐を受けて十字架を覚えて歩んでゆこうということをみてきました。

今日は早く集いたいということも願いつつ、最初の主の晩餐がどのような集いだったのか、聖書から見てゆきたいと思います。イエス様が教えた主の晩餐に、人々がどのように集い、持っていたのかを見ながら、今の私たちの主の晩餐について考えたいと思います。

ところで私たちは主の「晩餐」と呼びますが、日曜日のお昼にやるのに「晩餐(夜の食事)」と呼ぶのは面白いと思います。私たちが昼に行うこれを晩餐と呼ぶのは、イエス様との食事は夕食が多かったからです。特に前回見た最後の晩餐がそうでした。その他の食事も多くが夕食だったと思います。私たちは昼間に「晩餐」をしますが、そう呼ぶのは、イエス様との食事の名残です。

さて今日の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰです。コリントの人々も毎週日曜日の夕方に家に集まって食事会をしていました。家で集会をしていたのです。キリスト教はまず貧しい人々に伝わってゆきました。貧しい人々がそれぞれ少しずつ食べ物を持ち寄って、家で夕食会をしていたのです。当初は豪華な食事会ではなかったでしょう。

その夕食会は、イエス様がいろいろな人と分け隔てなく食事をしたことが再現されていました。民族や身分や性を問わない、ギリシャ人もユダヤ人もない、部外者ものけ者もいない、初めての人もそうでない人も、誰でも加わることができる、垣根のない、にぎやかな食事が家でもたれました。そしてその中で、主イエスを覚えて私たちの主の晩餐のように、パンを裂いたり、祈ったり、証しをしたり、賛美をしたりしたのです。

このような集い、貧しい人たちの多くは遅くまで働いてから参加しました。夜遅く少しずつ食べ物を持ち寄って集まったのです。そのような食事の輪はどんどん広がってゆきました。一緒にご飯を食べて、証しを聞いて、一緒に祈るという運動がキリスト教をどんどん広めてゆきました。コリント教会もそのようにして広がっていったのです。

しかしキリスト教が広まってゆくと、最初は貧しい人が多かったのですが、徐々に経済的に豊かな人も加わるようになってゆきました。富裕層お金持ちたちはそんなに夜遅くまで働きません。仕事を早く終わらせて、早く集まって、先に食事会を始めてしまうようになったのです。

コリントの教会ではお金持ちの人々が他の人を待たずに、先に食事を始めてしまうようになりました。そうすると遅れてきた人、つまり貧しい人たちは余り物を食べるしかありませんでした。そのような集まりをどう感じるでしょうか。気分はよくありません。22節きっと貧しい人々にとってそれは自分への見くびりであり、侮辱であり、恥をかかせることでした。そしてこのような行為は、分け隔てのない神の教会全体を侮辱する行為でもありました。このようにして、垣根のない食事会はうまくいかなくなってきたのです。

パウロはそのような食事の様子を聞いて、コリントの人々に手紙を書いています。17節にある、その集まりはむしろ悪い結果を招くものだとあるのは、このような食事のことです。そこでは本来、イエス様がいろいろな人と食事をしたこと、愛とお互いへの配慮が確認される食事の場所だったはずです。しかしそこでは自分だけが食べる、先に食べる、金持ちが先に食べる食事会でした。そのような食事はむしろ、互いの間に愛がないことを確認する食事、侮辱と差別に満ちた食事になってしまったのです。仲間割れ、分裂を起こす食事会になってしまったのです。

21節にも似た注意があります。各自が勝手に、我先にと食べました。誰がまだ来ていないのか、そろっているかどうかは確認されませんでした。互いへの配慮や愛を確認するための食事会は、遅れてくる人、貧しい人を無視する、かえって仲間割れの原因を作ることになってしまったのです。

29節も愛のない食事会への指摘です。無関心や自分勝手、差別は食事に現れていました。そのような差別が人を殺すのです。後から来る人、貧しい人、弱い者や病人を無視する共同体や社会が人を殺すとパウロは言っているのです。

パウロはこれ見て、20節それでは一緒に集まっても、もうこれは主の晩餐にはならないと言います。パウロはコリントに人に、2つの命令をしている。ひとつは28節「よく確かめなさい」という言葉です。日本語ではそうなっていませんが、もともとの言葉ではここは命令形です。もう一つは33節の命令です「互いに待ち合せなさい」です。

この個所でパウロが言おうとしていることは、主の晩餐において、みんながちゃんとそろっているかどうか、よく確かめて、互いに待って、食べなさいということです。誰かいない人がいないか、誰かの分が足りなくないか、誰かを忘れていないか、それをよく確かめて食べなさいということです。

自分の事ばかり考えて、自分だけが食べればいい、そんな集まりになっていないか、それを確かめなさい、吟味しなさいということです。28節の確かめなさいは、コリント教会の集まり、共同体に向けて言ったことです。集まり自体が、差別や他人への配慮がない集まりになっていないか、よく周りを見て確かめて食べなさいということです。

確かめるこれは、吟味するとも訳される言葉です。この個所から、よく自分自身を吟味してから食べなさいと言われます。自己吟味です。自分自身が洗礼を受けたかどうかを吟味する、自分が神様を信じているかどうか吟味する、罪を犯していないか吟味する、パウロはそういう意味でここを言っているのではありません。自己吟味をするようにいっているのではありません。

ここで吟味されるのは、私自身の資格や適性ではなく、共同体です。この集まりが誰かを置いていったり、差別したりしていないか、そのことを吟味しなさいとのパウロは言っているのです。そして共同体を吟味するとは、相互監視のようなことではありません。あの人は食べていいのかと他者の資格を吟味することでもありません。私たちは食べる時、この集いが何かを忘れていないか、誰かを忘れていないかを吟味するのです。

パウロは34節で、これができない食事会はもうやめてしまってはどうかと提案をしています。そんなかえって仲間割れになるような食事会だったら、やめてしまいなさいと言っています。それぞれ家で、金持ちは大きな家に住んだでしょう、いい家があるんだったら、その自分の家で食事をしてから集まりなさいと言っているのです。共なる食事でも、神様はそんな食事、喜ばないというのです。

この後も、この垣根のない食事がなんとか続いてほしかったと思うのですが、残念ながらパウロのいうとおりになりました。この後、食事と主の晩餐というのは別々に行われるようになりました。それぞれの家で食事をし、教会に集まり、主の晩餐だけを教会でするようになりました。それが今の私たちの教会で行う主の晩餐につながっています。

一方、食事会は様々に形を変えて残りました。歴史の中で愛餐会として様々に持たれて続きました。私たちは年に数回クリスマスやイースターに持ち寄りの食事会を行っていました。早く再開できたらうれしいです。どちらかというと、あの愛餐会や私たちのやっているこひつじ食堂や炊き出しの方が、主の晩餐の原型に近いでしょう。

さて、このように主の晩餐について考えてきました。今日は私たちが主の晩餐の時に確かめることは何かということについて考えてきました。それは自己吟味だけではありません。食べるとき、よく確かめなさいといわれていることがあります。それは私たちの共同体が誰かを置き去りにしていないかということです。共同体を吟味するということです。そして共同体吟味とは、あの人に食べる資格があるかどうかを見張ることではありません。この共同体が誰かを置き去りにしたり、差別したり、無視したりしていなかを点検しながら食べなさいということです。

今日誰がいないのか、主の晩餐にあずかっていないのかをよく確かめなさいということです。この教会を吟味して食べるということす。そしてその時どう感じるでしょうか。よし教会は大丈夫、100点だと確認できるでしょうか。もしそれができたらうれしいです。しかしどうでしょうか、私たちの中には、誰かを置き去りにしてしまっているということがあるでしょう。

教会に集えない方々もそうです、このオンラインの礼拝もそうです。インターネットがつながっていない人もいます。そのような破れがあることを、共同体吟味は教えてくれるでしょう。つながれない人がいる、集えない人がいる、食べることのできない人がいる、そのことをよく吟味して、食べたいのです。一緒にまた集い、食べれることを願って、主の晩餐をしたいのです。

誰を置き去りにしてしまっているか吟味し、全員が主の恵みの礼拝にあずかることを願いながら、この主の晩餐を共にいただきたいそう思うのです。

私たちの主の晩餐、そこに加わっていない人を覚えて持ちましょう。その人々との一致を願って、そのことを覚えて次の主の晩餐をいただきましょう。お祈りいたします。