【全文】「神は谷中にあり」 マタイによる福音書4章1~11節

イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』            マタイによる福音書4章4節

 

 みなさん、おはようございます。今日もこどもたちと共に礼拝をできること、うれしいです。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。

今月は公害問題と教会にどんな関係があるのかを考えています。私は教会が公害問題に関わるのは、教会の基本的な働きのひとつだと思います。今日は明治時代に起きた足尾銅山鉱毒事件から考えたいと思っています。

足尾銅山鉱毒事件と聖書にどんな関係があるのか。関係ないように見えます。しかし今月みなさんと一緒に歌って来た386番「あまつ真清水」という賛美は足尾銅山鉱毒事件の回復を願う歌です。当時毎日新聞記者だった永井ゑい子さんの記事によって、この公害問題が社会に広く知れ渡るようになりました。後に、鉱毒で汚染された渡良瀬川の回復を願って作詞されたのがこの讃美歌です。

足尾銅山は明治時代に東アジア最大の銅産出量を誇った鉱山です。日本の富国強兵のためには絶対に必要な鉱山でした。しかしというかやはり、その精錬工程で様々な有害物質(硫酸や鉛、酸化銅など)を含む土砂が発生しました。その土砂は工場の近隣に捨てられました。当然、雨が降れば、その土砂は農地へと流れ出ます。大雨の後は稲が腐り、川の魚が死ぬようになりました。

農作物が育たなくなった農民は激しい困窮に見舞われます。汚染物質はどんどん広がり、利根川や江戸川にも広域に汚染が広がるようになりました。政府はやがて対策を取ることにします。その方法は有害物質を貯める広大な池を作るという方法でした。

それが現在の渡良瀬遊水地です。当時そこには谷中村という村があり、多くの人が住んでいました。もちろん谷中村の人々は自分たちの村が水没することに反対をしました。自分たちが受け継ぎ、耕し、暮らした土地だったからです。

田中正造はこの公害問題に反対し、当初から運動の先頭に立っていた国会議員です。様々な反対運動をしましたが、それは無視され、問題はまったく解決しませんでした。田中自身も繰り返し逮捕されました。そして彼は獄中で聖書に出会ったのです。田中正造は出所した後、遊水地となることが決まった谷中村で暮らすことにしたのです。

汚染した土砂の埋め立て場所とされることとなった谷中村は移住が進められますが、反対する住民は最後までそこに住もうとしました。強制退去の命令が出され、人々は家から引きずりだされ、家々は強制的に破壊されました。しかしそれでも人々は出てゆきません。壊された家のがれきでもう一度家を建て、そこに住み、鉱毒事件に反対をし続けたのです。金銭による買収の誘惑も断りました。身も心もボロボロになりながら、それでも谷中村の人々はこの公害問題の解決を訴え続けたのです。

田中はそのような被害者の姿に心を打たれました。そして田中は、今まで自分は村人を無知無能で、活動について私が教えてあげようと思っていたことに気づきます。でも次第に田中はそうではなく、この村人たちの声をもっと聴いてゆこうと感じるようになったのです。この出会いが田中正造の転換点でした。

田中正造は谷中村に、一人の村人として生き、谷中村の人々の話をよく聞こうとしました。そして聞くたびに、社会こそ彼らから学ぶべきことがあると信じるようになります。田中はそれを谷中学と呼びました。

彼は谷中村の人の話を聞き続けました。そして弱者を通じて、強者が悔い改めるきだと考えたのです。弱者こそが社会を悔い改めさせることができると考えたのです。弱者こそ、社会を所有欲・支配欲から解放させることができると考えたのです。そしていつからか田中は、鉱毒問題の解決を訴える谷中村の人々を見て「神は谷中にあり」と言ったそうです。田中は貧しく虐げられ、小さくされ、それでも訴え続ける谷中村の人々を通じてこそ、神を知ることができるのだと考えたのです。

そして田中自身も持っていた財産を売り払い、貧しさの中で死んでゆきます。彼が死んだときに遺されたものは、渡良瀬川の石ころや日記などわずかだったそうです。しかしそのわずかな遺品の中には、新約聖書がありました。そして大日本憲法とマタイ福音書が一冊になった本があったそうです。田中はそのように生きました。

この公害も、国家や利益が優先される中で起き、そして小さい者の声はかき消されました。しかし聖書を読んだ一人の人がそのどん底にいた民の声を聞こうとしたのです。そして共に生きようとしました。社会が悔い改めるべきことを、この谷中村で貧乏に暮らす人々から教えてもらおうとしたのです。それはまさに小さき者の声を聞くということでした。そして田中の手記には「神は谷中にあり、聖書は谷中人民の中にあり」と残されています。この田中の生き方、苦しむ人と共に生き、そこから聖書を読んでゆく生き方は私たちの生き方にも影響を与えるでしょう。

 

 

今日の箇所を読みましょう。今日の箇所はイエス様が宣教を始め、40日の断食を終えた場面です。断食を終えたイエス様に悪魔は繰り返し誘惑をしています。悪魔はイエス様に、パンも名誉も繁栄もすべて手にすることができると誘惑したのです。

悪魔の誘惑として挙げられているものは所有欲、支配欲と言い換えることができるでしょう。それは知らぬ間にすべての人間が求めてしまうものです。そしてその力は本当に強く、根深く、悪魔そのものです。悪魔とは実に人間の所有欲や支配欲、様々な欲望の塊のような存在です。悪魔とは虫歯菌のように向こう側からやって来て、私たちを突っついて悪さをしてくるような存在ではありません。悪魔とは私たちの心の中にあり、それが社会の中で塊になるのです。一人一人の欲望や行動が社会に悪魔を生むのです。

悪魔の誘惑に対して、イエス様は「人はパンのみで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と応えています。この時もっともパンを求めていたのは、断食を終え、空腹を覚えたイエス様だったはずです。しかしイエス様はそれを受け取りませんでした。イエス様は空腹でも「人間はパンだけで生きるのではない」「もっとそれと同じくらい大切なことがある」と言ったのです。それは「神の言葉」だと言います。

実は今日の個所、特に4節は田中正造の遺品であった手記に繰り返し書いてあったみ言葉でもあります。彼はバプテスマを受けることはありませんでしたが、獄中で聖書と出会って以降、手記にはたくさんの聖書の引用があります。たしかに彼はキリスト者として歩もうとした人でした。そして田中正造はこの個所を谷中村の人々に重ね合わせて読んだのです。私たちもこの個所を谷中村の人々をカギに読みたいと思います。

公害による極貧の中で生きる谷中村の人々にとって、食料は何よりもまず必要なものでした。それは3節、この石が食料になって欲しいと願うほど、必要とされるものだったでしょう。しかしそれは公害で荒れ果てたこの土地を捨てて、移り住まなければ得ることができないのでした。

しかしそれでも谷中村の人々は先祖から受け継ぎ、耕し続けた場所を守ろうとします。谷中村の人々には、どんなに貧しくされ、奪われ、抑えつけられても、訴えなければならないことがあったからです。どれだけお金を積まれ、誘惑されても譲れない、訴えなければいけないことがあったのです。谷中村の人々は、自分がパンをもらうこと、補償をいくらもらうかということをもとめていたのではありません。この足尾銅山の公害問題の解決を訴えたのです。工場の停止と、公害の解決を訴え、社会に大きな問いを投げかけたのです。

谷中村の人々にとっては、人はパンのみで生きるのではありませんでした。人はお金だけで生きるのではないのです。補償金をもらえば解決する問題ではないのです。しかし当時の日本は富国強兵の時代です。日本全体が所有欲や支配欲といった悪魔に完全に取りつかれていました。人々は富国強兵のために、所有欲と支配欲のために、足尾銅山を掘り進め、地域の人々の命を見下し、軽んじたのです。そしてそこに公害問題が起きたのです。

谷中村の人々が突き付けているのは、その現実です。日本はこのまま強さ、豊かさのために人々が犠牲となってゆく、奪われていく、悪魔の誘惑にされるがままとなっている、それでよいのかという問いが谷中村からの問いだったのです。そのような谷中村は田中正造にとっても、私たちにとっても聖書を読む鍵のような存在となるのです。

田中は谷中村の人々にすっかり変えられてしまいました。田中は谷中村に住んで、自分たちの解放は強い者、知識のある者から学ぶのではなく、無学な者、無力な者、社会にとって無に等しいとされる者から聞くことができると考えたのです。

田中にとって、「人はパンのみでいきるのではない」という言葉の意味は、谷中村の人々と生きてすっかり理解が変わってしまいました。人はパンのみで生きるのではない。被害者は補償金をもらえばよいのではない。人間には尊厳のある生き方をする、正義が貫かれることが必要なのだ。そのように考えたのです。

後に田中は「神は谷中にあり」と言いました。谷中とは貧しく、社会の悪に苦しむ人、社会に置き去りにされた人々と言い換えることができるでしょう。神はそのどん底にいる、そこで生きる人々と一緒にいると田中は谷中村から教わったのです。私はそれは十字架のイエス様と神様が共にいたという姿と重なるのです。

私たちも声を聞きたいと願います。公害に苦しむ人々、社会の犠牲にされてしまっている人の声を聞きたいのです。神様は必ずそこにいるからです。私たちは神様をそこで見つけるはずです。その苦しみの声を聞いてゆくことは教会の大切な働きです。その声は神様のいる場所から聞こえる声なのです。

今、日本がもっとも直面している公害問題は原発の問題です。どこかこの話、原発も問題と重なります。公害をまき散らし、汚染水が溜まり、それが漏れ出し、人々が散り散りになるというのは原発とまったく同じ話です。福島から避難している人は、仕事も収入も失いました。それに対する補償もされているでしょうか。でもたとえどんなに補償されても、人はパンのみで生きるのではありません。その声を私たちも聞いてゆきたいのです。

私たちはこれからも公害問題に目を向けてゆきたいのです。それに痛む人々の声を聞き続けることが、私たちの福音理解につながるのです。お祈りいたします。