「神は谷中にあり」 マタイによる福音書4章1~11節

イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』            マタイによる福音書4章4節

 

今月は公害問題と教会について考えています。私は教会が公害問題に関わるのは、教会の基本的な働きのひとつだと思います。足尾銅山は明治時代、富国強兵のためには絶対に必要な鉱山でした。しかしそこからの汚染物質によって、農作物が育たなくなり、農民は激しい困窮に見舞われます。政府は有害物質を貯める広大な池を作りました。それが現在の渡良瀬遊水地です。もちろん沈められてしまう谷中村の人々は反対をしました。自分たちが受け継ぎ、耕し、暮らした土地だったからです。

田中正造は反対運動で逮捕された時、獄中で聖書に出会います。出所した後、遊水地となることが決まった谷中村で暮らすことにします。田中は反対を続ける村人の姿に心を打たれました。そして田中はこの村人たちの声をもっと聴いてゆこうと感じます。この出会いが田中正造の転換点でした。

彼は谷中村の人の話を聞き、弱者を通じて、強者が悔い改めるべきだと考えます。弱者こそが社会を悔い改めさせ、弱者こそ、社会を欲望から解放させると考えたのです。田中は谷中村の人々を見て「神は谷中にあり」と言ったそうです。この田中の生き方は、苦しむ人と共に生き、そこから聖書を読んでゆく生き方です。

今日の箇所を読みましょう。断食を終えたイエス様に悪魔は繰り返し誘惑をします。悪魔の誘惑として挙げられているものは所有欲、支配欲と言い換えることができるでしょう。悪魔とは私たちの心の中にあり、それが社会の中で塊になるのです。悪魔の誘惑に対して、イエス様は「人はパンのみで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と応えています。この時もっともパンを求めていたのは、断食を終え、空腹を覚えたイエス様だったはずです。しかしイエス様はそれを受け取りませんでした。「それと同じくらい大切なことがある」と言ったのです。

実は今日の個所、特に4節は田中正造の遺品であった手記に繰り返し書いてあったみ言葉です。この個所を谷中村の人々をカギに読みたいのです。谷中村の人々は、どんなに貧しくされ、奪われ、抑えつけられ、金を積まれ、誘惑されても譲れない、訴え続けたことがありました。谷中村の人々は、パンをもらうこと、補償を求めていたのではありません。この足尾銅山の公害問題の解決を訴えたのです。

谷中村の人々にとっては、人はパンのみで生きるのではありませんでした。谷中村の人々が突き付けているのは、日本はこのまま強さ、豊かさのために人々が犠牲となってゆく、奪われてゆく社会でよいのかという問いです。人はパンのみで生きるのではない。被害者は補償金をもらえばよいのではない。人間には尊厳のある生き方をする、正義が貫かれることが必要なのです。

私たちも声を聞きたいと願います。公害や社会の犠牲にされてしまっている人の声を聞きたいのです。神様は必ずそこにいるからです。私たちは神様をそこで見つけるはずです。その苦しみの声を聞いてゆくことは教会の大切な働きです。