「クリスマスと終末の希望」マルコによる福音書13章24~37節

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。マルコによる福音書13章33節

 

今日からアドベントです。私たちのクリスマスは毎年規則正しく12月25日に来ます。しかしイエス様の誕生以前は、いつ起こるかわからず、何百年も待ち、ある日突然、それは起きたのです。これは私たちのクリスマスとは大きく違います。

私たちにとってのクリスマスは、「やがて」必ず来るものです。そして私たちにとっては2000年前に「すでに」来たものです。私たちはこの二つ「すでに」と「やがて」を祝っています。イエス様は「すでに」私たちと共にいる、そしてまた「やがて」私たちに生まれて下さる、それが私たちのクリスマスです。

そして終末も同じように、「すでに」あるものであり「やがて」来るものです。私たちはクリスマスを待ち望むことを始めました。それと同じように私たちは終末も待ち望みます。今日はそのことを覚えてゆきたいと思います。

終末思想とは、イエス様が再び地上に現れる時に、世界が終わりを迎えるという考えです。中世では終末の時、クリスチャンは天国へ、ノンクリスチャンは地獄へ振り分けられ、地獄に落ちると永遠に罰を受け続けると考えられました。しかし私たちは信仰告白11にあるように終末を恐怖の瞬間ではなく、希望の時と考えます。

イエス様が来るという出来事の1回目はクリスマスであり、それは希望でした。そして2回目が終末の時です。そして2回目も希望の時となるはずです。

終末の時とはこの不完全な世界が、ゆがんだ世界が完全なものへと完成する時です。私たちはそこに、希望を持つのです。どんなにこの世界が不完全で、どんなに私の人生に苦痛があっても、いつか必ず終わりが来る、いつか必ず完成する時が来る、希望の時が来るのです。それが私たちの終末の希望です。

その日付を知りたいと願うでしょう。しかし日付は知らない方がよいのかもしれません。息の長い、日付の無い希望こそが私たちを励ますのです。今ではないけど「やがて」この世界が完成する、希望の時が来る、それが私たちの終末の希望です。

どこか終末を待つということは、クリスマスを待つことに似ているでしょう。32節から門番のたとえがあります。神様から責任と役割を託された僕は、そこで互いに平和に、愛し合う役割を与えられて誠実に、あきらめず、いつまでも待つようにと言われたのです。目を覚まし、しっかりとこの世界を見るのです。

そして終末とクリスマスは「すでに」来ているという点でも共通します。2000年前イエス様が来られたときから終末は始まっているのです。「すでに」クリスマスが始まっているように、終末も「すでに」始まりつつあるのです。イエス様が私たちと共におられるということにおいてです。

私たちには苦しい人生の中でも必ず「やがて」来る希望があります。そして今「すでに」ある希望がきっとあるでしょう。「すでに」来ている希望に感謝をしましょう。そして「やがて」来るその希望を共に待ちましょう。